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十字架のことば、神の力(Ⅰコリント人への手紙1章18~25節)

 


徐亥貞(ソ・ヘジョン)師(播磨キリスト教会)

「神の力、十字架のことば」

コリント人への手紙第一1:18-25

おはようございます。今日こうしてともにみことばの恵みを分かち合える幸いな時が与えられていることを感謝いたします。最近、日本と世界の各地は大きな地震や山火事、戦争など不安と混沌の中にありますけれども、その中でも、主の日を覚えて御前に集い敬愛する皆さんとともに主日礼拝をささげることができますことを感謝いたします。

数えてみましたが、私たちの家族は20114月から5年間新船橋で皆さんとともに礼拝を守りました。そして、船橋から離れて働きに出ていたのが20163月でした。ちょうど10年前です。本当に右も左も分からず、なにもかも未熟で足りない私たちの家族のために、一生懸命祈り支えてくださった皆さんの尊い愛を今でも覚えています。目に見えない神の愛を目に見える共同体の兄弟姉妹を通して身をもって豊かに経験することができました。皆さんのおかげさまで、趙牧師もサムエルも元気に過ごしています。イチゴ食いしん坊の1歳だったサムエルは16歳になりました。高校1年生です。播磨の教会は高齢化が進んでいますけれども、みんな元気で何とか頑張って種まきの働きに力を合わせています。今日この場を借りて皆さんに感謝のお礼を申し上げます。皆様、本当にありがとうございました。神様の豊かな顧みと祝福を心からお祈りいたします。物理的には離れていてもいつも主にあって互いに祈りに覚えていることを感謝し励まされています。

播磨の教会は今年開拓から32年目を迎えましたが、新船橋は1980年開拓伝道をはじめて今年46年になると思います。21世紀を生きる私たちの諸教会は万物を造られ今も歴史において世界を治めておられる全能の神を礼拝する共同体です。諸教会を開拓から今日まで守り導いてくださった主の恵みに感謝をいたします。そして、これからも主ご自身がなされる素晴らしい救いの御業を期待しつつ神と隣人に仕えていく共同体でありたいと願います。

今日は、1世紀のコリント教会に与えられたみことばを通して今日の私たちの教会に語られる主の御旨を知り、示される御心をこれからともに見ていきたいと思います。 

今日のテキスト118節・19節です。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。」

本日のテキスト、コリント人への手紙第一は、使徒パウロがコリント教会に送った手紙です。コリント教会はパウロが第二次伝道旅行の際に建てられた教会です。コリント教会の誕生については使徒の働き181-11節に詳しく記されています。読まれる方はどうぞ参考にしてお読みください。

パウロはいくつかの目的を持ってこの手紙を書いたと推測されます。なぜかと言うと、コリント教会は様々な問題を抱えていたからです。分裂の問題、道徳的な問題、或いは、神学的・実践的な質問に対してガイドラインを提示するためにこの手紙を書いたと考えられます。18節にあるように、様々な問題を抱えているコリント教会の人々にパウロは他ではなく、十字架のことばを語っています。十字架のことばは神を知らない者たちと信者である私たちに天と地のように全く理解が異なります。とりわけ、教会内の救われる私たちにおいて十字架のことばは、信仰の中心になるものです。しかし、パウロは当時、十字架のことばに対する誤った理解を持っていたコリント教会の人々を指摘してその危険性の一つの実例としてコリント教会にある分裂の問題を取り上げています。少し前の110節から12節です。「さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。」

教会共同体の分裂の原因は様々です。しかし、ここでパウロは教会内部にある分裂の原因が十字架のことばに対する誤った理解にあると指摘します。「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」。これは、どういうことなのでしょうか。十字架のことばの御教えからマット外れの人々にパウロは言います。キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。」 パウロは分裂の問題で混乱が生じていたコリント教会の人々に、十字架で死なれ、よみがえられたイエス・キリストを語っています。キリストの十字架が虚しくならないように、神の力、イエス・キリストを思い起こさせているのです。福音宣教において私たちが語るべきメッセージは、パウロが言うように、十字架のことばです。パウロは預言者イザヤのことばを通して、人のことばの知恵によらず、知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る十字架のことばに立ち続けることの大切さを強調しています。

実際に伝道の現場において十字架のことばは、愚かにされ、バカにされる時がしばしばあります。私は播磨で未信者の家庭集会を開いて学び会を持っています。参加者の中には、聖書を読むことも学び会に参加することも全くはじめての一人の姉妹がいます。八百万の文化の中で育てられた彼女に、八百万の神々ではなく、唯一の神を説明することだけで、相当難しい経験をしたことがあります。学び始めて2年が過ぎた最近は、ようやく十字架のことばを理解し納得するようになりましたが、まだイエス様を自分の救い主として受け入れることは難しいと言っています。このように、信仰者の私たちに十字架のことばは神の力であっても、この世の人には愚かなものになるのです。

21節から23節です。「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、」。

この世は自分の知恵で神を知ることがないと言われます。ですから、世の人々を救うために神は愚かにされる宣教のことばを用いられるのです。宣教のことばを聞いて信じる者は救われます。神の力は愚かにされる宣教のことばを通して働かれるからです。勿論信じない者には愚かにされるだけです。

ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、繰り返し私たちが宣べ伝えるのは、十字架につけられたキリストです。十字架の上で命をくださったイエス・キリスト、和解のいけにえとしてご自分を神にささげられた御子イエス・キリストを証ししなければならない理由がここにあるのです。  

もしかすると、この時代が求められるのは、しるしやこの世の知識かもしれません。確かにこの世は永遠の命よりは、今目に見える自分が望んでいることを探し求めているように見えます。だからこそ、彼らには私たちが宣べ伝えるキリストがつまずきとなり、愚かなものになるわけです。

24節はこう語ります。「ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」

前半に、十字架のことばに対する誤った理解がもたらす危険性について確認しました。キリストはこの世の知恵ある者、学者、論客、誰一人自分の知恵を誇ることがないようにこの世の知恵を愚かにされました。現代人が頼りにして求めていることと私たちが宣べ伝えることの間には大きなギャップがありますが、ユダヤ人であってもギリシア人であって、救われた私たちが証しするのは、神の力、神の知恵であるイエス・キリストです。

終わりに

パウロは混乱の中にあるコリント教会の人々にしるしでもなく、知識でもない神の力、十字架のことばを力強く語りました。みことばは命じています。「黙ってはならない、恐れないで、イエスがキリストであることを語り続けなさい」。主イエスの十字架のことばによって、この町にいる神の民が救われるのです。主の教会が信仰と思いを一つにして福音宣教に前進するように十字架のことばは促しているのです。一人でも多くの主の民が起こされ、神に栄光を帰する時が来ますように祈り願います。今週一週間も神の力、イエス・キリストの十字架のことばにとどまり、この町にある神の民に語り続けていきましょう。 “イエスはキリストです”

 

お祈りいたします。


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