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争いはどこから(ヤコブの手紙4章1~3節)

 


「争いはどこから」

ヤコブの手紙1章1~3節 

8月は、日本では戦争の悲惨さと平和の尊さを深く心に刻む重要な月です。8月6日の広島平和記念日に始まり、8月9日の長崎原爆の日、そして8月15日の終戦記念日があり、全国各地で平和を祈る行事や黙とうが行われます。

私たちが属する日本同盟基督教団は、教憲教規の前文の中で、「過去の戦争協力と偶像礼拝の罪を悔い改め、世の終わりまでキリストへの信仰を堅持する。」と謳っており、かつて、戦争に加担し、天皇崇拝をアジア諸国の教会に強要したことなどを深く悔い改めて、二度と同じ過ちを繰り返すことがないようにと、毎年、8月になると、そのことを心に刻む機会を設けています。

よく、戦争の原因の多くは「宗教」だと言われます。また、そのようなことを言う人は、「その点日本は、宗教へのこだわりがないので、平和的な国だ」というのです。本当にそうでしょうか。日本は、ほんの80年前には、自ら神国日本(皇国)と呼び、いざとなれば神風が吹くと言っていた国です。「天皇陛下ばんざい!」と敵の軍艦に突っ込んで行った若い兵士たちがいる国、おとなり韓国で、神社参拝を拒否する牧師たちを拷問し、獄死させた日本を思う時、「日本は宗教へのこだわりがないので平和」などとは言えないと思うのです。

また、歴史辞典『Encyclopedia of Wars(戦争の事典)』によると、過去に起きた1,763件の戦争のうち、宗教を主原因としているのは123件であるとあります。割合にして7%弱です。宗教戦争の代表的なものが、ヨーロッパのユグノー戦争、三十年戦争、そして中世の十字軍などです。その他93%は、領土拡大、経済的利益、利権争い、民族対立などです。けれどもこれらを理由に国民を戦いに動員することはできません。そこで為政者たちは言うのです。「これは正義のための戦いだ」「圧政の中でしいたげられている相手国の国民を救うのだ」「大量破壊兵器を持っているから」「向こうが先に仕掛けたから」「仕掛けるかもしれないから」「自国の平和を守るため」「殺らなければ殺られる」そんな大義名分を掲げ、戦争を始める。そして、一度始まった戦争は、終わらないのです。そして多くの尊い命が失われていくのです。 

今日のヤコブ書4章1節には争いの原因について書かれています。

「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。」

ここでの争いは、文脈から見ると、教会内部の争いのようです。教会内に分裂・分派が起こり、自分たちこそ正しいと、相手が悪いと攻め合う、そんな争いがあったのでしょう。

ただ、ここで確認したいのは、なにも、衝突を恐れて、自分の意見を言わない、間違っていると思っても指摘しない、表面だけは平和だけれども、心の中ではさばき合っている、そんな日本的な「和」がいいと言っているのではないということです。人が集まれば、意見の違いから対立や衝突することはありますし、利害関係も生まれます。それは人と人、国と国、民族と民族との間でも起こることです。けれどもそれをどう解決するかが問題です。

私たち夫婦は、何年か前に「プリペア・エンリッチ」というカップルカウンセリングを受けたことがあります。その時に学んだことは、成熟した、いい夫婦というのは、衝突しない夫婦ではない。衝突したときに上手に解決できる夫婦だということです。人と人とが一緒に生活すれば、全く衝突しないということはありえません。けれども、衝突したときに、自分の思いを上手に表現し、また相手の思いに傾聴できるなら、どこかで折り合いをつけることができるはずです。国と国との衝突もそうです。もうちょっと外交努力ができないものかなと、戦争が始まる度に思います。

このヤコブ書4章1節の「戦い」や「争い」も同様です。それは意見の衝突とは違います。衝突の解決の仕方が、「戦い」や「争い」であってはいけないということを言っているのです。

少し前になりますが、私は牧会コラムに教皇ヨハネ・パウロ2世のことばを紹介しました。それは、1981年、広島で行った「平和アピール」の言葉で「戦争は人間の仕業です」という言葉です。私たちクリスチャンがよく聞く言葉に、こんな言葉があります。それは、「神がいるなら、どうしてこの世の中にはこんな悲惨なことが起こるのだ」「愛の神がいるなら、どうしてこんな人と人とが殺し合う戦争を放置しているのだ」 しかし、そんな人々には、この言葉を言いたいのです。「戦争は人間の仕業です」 ヤコブも言っています。「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。」 そうです。戦いや争いは、神から来るのでも、外から来るのではない。私たちの内側から、心から来るのです。私たちの心の中の「戦う欲望」つまり「罪」から出て来るのです。

子どもの兄弟げんかの仲裁に入ると、彼らはいつも同じことを言います。「あいつが邪魔したから」「あっちが先に手を出したから」、イライラした母親は言います。「子どもがうるさい、言うことを聞かない」「ママ友が…」いつも、争いの原因は、自分の外にあるのです。誰も、「私に忍耐力がないから」とか「ぼくの愛が貧しいからだ」などとは言いません。国と国の争いも同じです。悪いのはいつも相手国で、自分たちの国はいつだって正しいのです。けれども聖書は言います。「問題は、私の中にあります。」「私のからだの中で争う欲望」が原因なのです。この欲望は、いつも、自分ではなく、相手に変わってほしい、相手が自分の気に入るように動いてほしい、思い通りになってほしい、そう強く欲するのです。

 

けれども聖書は、争いが起こるのは、「欲求の向き」と「欲求を満たす手段」が間違っているからだと言います。2節前半「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。」

私たちは自分の欲求を相手にぶつけます。そして、ぶつけても思い通りにならないと、「人殺しをする」とあります。先ほど、これは教会の中で起こっている争いのことだと言いました。けれども教会の中で人殺しが起こっているわけではありません。もちろんこれは比喩です。けれども、Ⅰヨハネ3章15節には「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」あります。私たちは、実際に殺さなくても、心ない言葉で何度、人を殺してきたでしょうか。友人を、夫を、妻を、子どもを、兄弟を、私たちは言葉や態度で殺すのです。「熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします」デパートでひっくり返って、「おもちゃ買って~!」と駄々をこねている子どものように、私たちは、なんとか、自分の思い通りに人を動かそうとする。国も同じ、どうしてもこの領土がほしいと戦いを仕掛け、自国の要求が拒絶されると、脅し、制裁を加え、武器や核をちらつかせ、何とか自国の思い通りに、相手国を動かそうとするのです。

 

けれども、自分の力や策略で欲望を満たそうとしても、それは永久に満たされることはありません。聖書は言います。2節後半「自分のものにならないのは、あなたが求めないからです」誰に求めないのでしょうか。神さまに求めないからです。本当の満足と平和は、神から来ます。先ほど、私は求める方向と手段が間違っていると言いました。私たちは誰しも、欲望があります。聖書は欲望自体は否定していないのです。けれども私たちの欲望は、罪の影響を受けているので、多くの場合、自己中心的です。ですから、それを人に求めるなら、人は応えることができないどころか、争いに発展します。ですから、私たちの欲望、言い換えると「願い」「思い」は、主に向けられるべきです。天の父なる神さまは、お優しいお方なので、どんな私たちの願いも、思いも受け止めてくださいます。私たちの欲望は、神さまの前には汚れているかもしれないし、自己中心かもしれない。けれども、それがあなたの思いであり、願いならば、天のお父さまは、身を乗り出して聞いてくださいます。私たちのことを愛しているからです。イエスさまは山上の説教で言いました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」

神さまは、良いものを与えてくださいます。自分の願ったものではないかもしれない。けれども、最善をもって答えてくださるのです。ヤコブ書4:3には、こうあります。「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」また、Ⅰヨハネ5:14にはこうあります。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

私たちは、なんでも神さまに祈っていい。そして私たちを愛し、私たちの最善を知っておられる神は、最善をもって答えてくださる。それが私たちの確信で、とても安心なことです。

皆さんは『国宝』という映画を見たでしょうか。歌舞伎の世界の話です。主人公喜久雄は15歳の時、抗争で父親を亡くし天涯孤独となりましたが、天性の美貌と舞の才能を見出され、上方歌舞伎の名門・花井半二郎に引き取られ、跡取り息子の俊介と兄弟のように育てられます。2人は親友、そしてライバルとして互いに高め合いながら青春を芸に捧げていくのですが、事故で入院した半二郎が、実子である俊介ではなく喜久雄を舞台の代役に指名したことで、2人の運命の歯車が大きく狂い出すのです。そんな中、喜久雄は、娘を連れて神社に行くのですが、熱心に祈る父を見上げながら、小さな娘は、「神様と何を話していたの?」と聞きます。すると喜久雄は答えるのです。「神様と話ししてたんとちゃうで。悪魔はんと取引してたんや」 この場面は、彼が芸の怪へと変貌を遂げる物語の決定的なターニングポイントとなります。人間としての幸せすべてを犠牲にしてでも日本一の歌舞伎役者になるという契約を、この狂気と覚悟の場面で、悪魔と交わしたのでした。こうして喜久雄は破滅へと向かっていきます。

真の愛の神は求めても与えないことがあります。けれども、自分の快楽のために悪い動機で祈るとき、神が聞いてくださらないというのは、なんと幸いなことでしょう。安心なことでしょう。私たちは、子どものように、天のお父さまに、私たちの願いを聞いていただきましょう。そうすれば、神さまは、私たちの願いや思いを超えて豊かに答えてくださいます。

 

最後に『炎のランナー』の主人公エリック・リデルのことばを分かち合いたいと思います。彼は、宣教師として中国で神さまの愛と、イエスさまの救いについて宣べ伝えていましたが、日本軍に捕虜として捕まります。捕虜収容所で、彼は仲間と聖書の学びをするのですが、そこで「あなたの敵を愛し、敵対する者のために祈れ」という聖書の言葉を開きました。一緒に聖書を学んでいた人は、日本人が中国人に対してしているひどい仕打ちを見て、このみことばだけは、実践不可能だと言います。けれどもリデルは言います。「それでも敵のために祈りなさい。憎むとき、人は自分中心になるが、祈るとき、神中心になれる。」と言ったそうです。

私たちは、なんでも祈ってもいい。自分の欲望をそのまま祈ればいい。けれども不思議です。祈るとき、私たちは、自己中心から解放されていきます。そして、神中心の、つまり神のみこころにそった、聞かれる祈りへとへ引き上げられていくのです。

この戦争の足音が聞こえてくる時代。私たちは平和のために祈りたいと思うのです。全世界を治め、一人ひとりを愛し、いつくしんでくださる神に祈るときに、神さまは、私に平和を与えてくださる。私たちの家族に平和をくださる。日本と世界に平和をもたらしてくださるのです。「祈るとき、神中心になれる」祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたは私たちを平和をつくる者として、この争いの絶えないこの世から、救い出し、召し出してくださいました。争いは、人間の仕業。争いは、外に原因があるのではなく、内側に原因があることを知りました。私たちは罪深いので、何が主のみこころにかなう祈りなのかもわかりません。ですから、すべての願いをあなたのもとに持って行きます。どうぞ、あなたのみこころだけがなりますように。そして祈りの内に私たちを引き上げ、あなたのみこころを祈る者と成長させてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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