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兄たちとの再会(創世記42章1~25節)

 


「兄たちとの再会」

 

創世記42章1~38節

 

 41章では、兄たちによってエジプトに売られたヨセフが、神さまの導きの中で、とうとうエジプトの最高権力者になり、エジプトだけでなく、近隣諸国を飢饉から救うことになるというところで終わりました。もし、ヨセフ物語が、ヨセフのサクセスストーリーであるならば、ここで終わってもよかったのです。けれどもヨセフ物語は、この後、創世記の終わり、50章まで続きます。なぜでしょうか。それは、ヨセフ物語がサクセスストーリーでおわるようなものではないからです。実は、ヨセフ物語は、家族の和解の物語です。

 ヨセフ物語は37章から始まりました。家族全員が共に住み、父ヤコブを中心に、表向きは、平和な家庭生活を営んでいました。けれども、二人の妻と二人の側女からなる家族は、水面下で、妬みと憎しみが渦巻いていました。そしてとうとうそれは、水面下では収まらなくなくなり、兄たちは、行動に移してしまうのです。彼らは、弟ヨセフを殺そうとしました。けれども殺してしまっては何の得にもならないと、エジプトに向かうミデヤンの商人たちに、たった銀20枚で彼を売り飛ばしてしまったのです。

 妬みと憎しみで沸騰しているときには、その勢いに任せて、人はどこまでも残酷になれます。兄たちは、ヨセフが着ていた服に、獣の血をべったりとつけて持ち帰り、「こんなものを見つけました…」と父に手渡すと、父は、大げさではなく、死ぬほど悲しみ、苦しみました。そして、明けても暮れても悲しみ続けたのです。ヨセフの兄たちは、自分たちがしたことの意味を、また恐ろしさをじわじわと感じていくことになります。けれども、自分たちのしたことは、決して父に知れてはいけない、表には出してはいけないと、そこはしっかり蓋をして、できれば墓場まで持って行こうと決めていたのでした。

 私たち人間は、罪を隠しながら、平安に生きることはできません。8月は平和を考える月です。戦争は加害者も被害者も傷つけました。帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)は、戦場での極度の恐怖や暴力の体験が原因で引き起こされ、不眠、フラッシュバック、攻撃性の暴発、アルコールや薬物への依存、社会からの孤立などの深刻な症状を引き起こしました。

 また、犯罪者が逃走しているときの心理状態をご存知でしょうか。犯罪心理学によると、彼らは、強い恐怖と不安、極度の緊張、そして孤立感に支配されます。些細な物音や周囲の視線にも過剰反応し、他者すべてが敵や通報者に見える状態になるそうです。そして、冷静な計画を立てるのが難しくなり、その場の勢いで移動や隠れ場所を決めるようになります。それだけでなく、誰にも助けを求められず、知人や家族すら裏切るのではないかと疑い、心理的に完全に孤立します。そして、終わりが見えない逃亡生活により、常に追われるプレッシャーで睡眠障害や精神的追い詰め状態に陥るということです。

 罪は、被害者を傷つけるだけでなく、加害者も傷つけます。戦争のような非常時や犯罪者のような例は極端かもしれません。けれども私たち人は、みんな罪人ですから、誰も傷つけないでは生きていけません。私も自覚できるだけでも、数知れず、人を傷つけてきました。もちろん気づかないで人を傷つけていることは、もっと多いでしょう。そして時々それは、フラッシュバックします。子育て中、疲れとイライラの中で、夫や子どもあたったこともありました。友だちを裏切ったこともあります。その記憶は、ふとした拍子に思い出されて、「どうしてあんなことをしたのか」と自分を責めます。また、それを誰にも言えないで、蓋をすることによって、ますます自分を傷つけるのです。


 ですから私は、兄たちがどんなに苦しい20年ほどの時を過ごしたかを想像することができます。ある時、父が言うのです。1節「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」

 兄たちは互いに顔を見合わせていたのです。飢饉になって2年がたっていました。エジプトに食料があるのは知っていました。年老いた父より、若い人の方が情報に精通しているものです。けれども、それを言い出せなかったのです。なぜか?そこがエジプトだからです。奴隷として売られた弟ヨセフは、生きているだろうか、ばったり会ったらどんな顔をすればいいのだろうか、兄たちは複雑な思いがあって、エジプトから目を背けていたのです。そんな彼らの様子を見ると、彼らは、ヨセフにした仕打ちを、今や後悔していることがわかります。

 そして彼らが、ヨセフを売ったことを後悔し、悪かったと思っていることは、彼らの言葉の端々からもうかがえます。例えば、宰相となったヨセフと対面した兄たちは、相手がヨセフだとは知らないまま、問われるままに、家族のことを話します。13節「しもべどもは十二人兄弟で、カナンの地にいる一人の人の子でございます。末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました。」 彼らは、自分たちは12人兄弟だと言います。ちゃんとヨセフをカウントしているのです。ヨセフを兄弟の数に入れています。以前は、こんなやついなくなればいいと思い、殺そうとまでしたヨセフですが、どうしてもいなかったことにはできない、そんな兄たちの後悔の念をここにも見るのです。彼らは言います。「一人はいなくなった」と。もちろん売ったとは言えないのですが、兄弟の一人が今は、自分たちのところにはいないのだと正直に伝えているのです。

 そしてスパイ容疑をかけられた彼らは、ヨセフが聞いているとも知らずに、互いに話します。21節「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」弟ヨセフを穴の中に投げ込み、泣き叫ぶ弟の横で、お弁当を広げて食べたあの非情さを、彼らは今悔いている。そして自分たちは、その非情さの報いを今受けているのだと言っているのです。


  さて、ヨセフの方はどうでしょうか。彼もまた、複雑な思いの中にいました。彼はエジプトの宰相となり、結婚もし、二人の息子が与えられました。長男マナセの名前の意味は、「忘れる」でした。そして彼は、「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」と告白したのでした。彼はエジプトで成功し、権力と名誉と財を得、そして子孫も残すことができた。もうこれ以上何を望むのだろう。ところが、ヨセフは、兄たちの顔を見た途端、過去の日々がよみがえりました。もちろん懐かしさもあったでしょう。けれども、それ以上に、荒野で殺されかけたあの時のことが、昨日のことのように思い出されました。ヨセフは必死に平静を保ちながら、「彼らに対して見知らぬもののようにふるまい、荒々しいことばで彼らに語りかけた」のです。平静を保つために、そうせざるを得なかったのだと思います。ヨセフは思います。兄たちは変わったのだろうか。今も自分のことを憎んでいるのだろうか、あの時のことを後悔しているだろうか。ヨセフはこみあげてくる思いを制して、わざと荒々しいことばで彼らに話し、スパイの嫌疑をかけるのです。ヨセフは、初めは、誰か一人を遣わして、弟ベニヤミンを連れてくるように言いますが、三日間彼らを監禁した後、考えを改めます。そして一人を人質に取り、一旦穀物を持たせて帰し、次に来るときには、弟を連れてくるように申し渡します。兄たちが目の前にいる権力者が、まさか自分たちが奴隷として売ったヨセフだとは気づきませんでした。そして彼らはヘブライ語で兄弟同士話すのでした。21-22節「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」ルベンが言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのに、おまえたちは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けているのだ。」兄たちは、あのときのことを悔いている。ヨセフは今、目の前にいる兄たちは、以前の兄たちとは変わったと感じたのでした。そして、いたたまれなくなり、その場から離れて、泣きました。しかし、今は自分が何者であるかを明かす時ではない。まずは、以前の自分と同じ立場にあるベニヤミンに、彼らがどう接するかを見ようと思ったのです。平常の時には、わからない、危機の時に兄たちはベニヤミンをどう扱うか、それを見る必要があると思ったのです。

  さて、兄たちは、目の前で自分にひれ伏していました。6節には「顔を地につけて彼を伏し拝んだ」とあります。そんな彼らを見ながら、ヨセフは、まだ父の家にいたころの夢を思い出しました。「兄弟たちが、畑で束を作っていました。すると突然、ヨセフの束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄たちの束が周りに来て、ヨセフの束を伏し拝んだ」というあの夢です。あの時兄たちは地団太を踏んで怒り言ったのです。37:8「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」そして、ますますヨセフを憎むようになったのでした。そしてヨセフが羊の群れを飼う兄たちのもとに来た時に、彼らは言いました。37:19-20「見ろ。あの夢見る者がやって来た。さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、狂暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか。」しかし今、夢が実現しました。兄たちは自ら、それを成就させたのでした。ヨセフは思ったことでしょう。それならば、もう一つの夢も、必ず実現するはずだと。もう一つの夢は何だったでしょうか。それは「太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝む」という夢でした。ヨセフは、父ヤコブが自分にひれ伏すのを見たいと思ったわけではないでしょう。けれども、父に会いたい、母を同じくする弟ベニヤミンに会いたい! きっと、神さまがもう一度、このバラバラになった家族を一つにしてくださる。彼はそんな期待を抱きましたが、急いては事を仕損じます。ヨセフは一つ一つ、段階を進めていくのでした。

 

 私は初めに、ヨセフ物語は、単なるヨセフのサクセスストーリーではない、家族の和解の物語だと言いました。兄たちは、過去の自分たちの罪に向き合うことなく、臭いものにふたをし、この罪を墓場まで持っていこうとしていました。ヨセフもヨセフで、「主は忘れさせてくださった」と、過去のつらいことは忘れて、今の幸せを見つめて生きればいいと思っていました。けれども、神さまは、この家族をあきらめていませんでした。そして再び一つにしようとされたのです。

 私たちにも、未解決の罪、問題、課題があります。和解しなければいけない人がいるでしょう。目を背けて見ないようにしているかもしれません。たいしたことないよと自分に言い聞かせているかもしれません。自分は悪くないとうそぶき、心は痛むのに、放置しているかもしれません。黙っていれば誰にもわからないと蓋をしているかもしれません。けれども主は、私たちにその罪と向き合い、解決するようにと迫られます。

 安心してください。私たちの罪の代価は、すでに支払われています。イエス・キリストが、十字架で私たちの罪を背負い、身代わりに罪の罰を受けて死んでくださいました。そして、主は3日目に、罪と罪の報いである死に勝利し、墓の中からよみがえり、今も生きておられます。 私たちの罪の代価はすでに支払われていますから、私たちは安心して、心に未だくすぶっている過去の罪を主のもとに持っていけばいいのです。心の扉を開いて、イエスさまはお迎えしてください。先日の五十三師の黙示録のメッセージで、「心の扉を開く」とは、未信者に語られているのではなく、まさに私たち、イエスさまを信じている者に語られているのだとありました。私たちは心の扉を開いて、心の奥にある「開かずの間」、異臭を放っているその部屋を空けて、イエスさまをお迎えしましょう。何も隠すことはない。主はご存知です。こうしてすべての部屋を主にお見せして、主イエスさまに、私たちの心の全領域を治めていただく王になっていただきましょう。そうすれば、魂に平安が来ます。祈りましょう。

 

 天の父なる神さま、私たちの心には開かずの間がないでしょうか。兄たちが墓場まで持って行こうとした罪、ヨセフが、もう忘れてしまおうと思っていた心の傷。けれども主はそんな兄たちもヨセフもあきらめなかった。本当のゆるしと和解を彼らに用意しておられたのです。私たちの中にも、まだ開かずの間があるかもしれません。今、御前に心を探り、その固く閉ざした心の扉を開くことができますように。そして心の全領域の主として、王としてイエスさまをお迎えすることができますように。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン


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