「兄たちとの再会」
創世記42章1~38節
41章では、兄たちによってエジプトに売られたヨセフが、神さまの導きの中で、とうとうエジプトの最高権力者になり、エジプトだけでなく、近隣諸国を飢饉から救うことになるというところで終わりました。もし、ヨセフ物語が、ヨセフのサクセスストーリーであるならば、ここで終わってもよかったのです。けれどもヨセフ物語は、この後、創世記の終わり、50章まで続きます。なぜでしょうか。それは、ヨセフ物語がサクセスストーリーでおわるようなものではないからです。実は、ヨセフ物語は、家族の和解の物語です。
ヨセフ物語は37章から始まりました。家族全員が共に住み、父ヤコブを中心に、表向きは、平和な家庭生活を営んでいました。けれども、二人の妻と二人の側女からなる家族は、水面下で、妬みと憎しみが渦巻いていました。そしてとうとうそれは、水面下では収まらなくなくなり、兄たちは、行動に移してしまうのです。彼らは、弟ヨセフを殺そうとしました。けれども殺してしまっては何の得にもならないと、エジプトに向かうミデヤンの商人たちに、たった銀20枚で彼を売り飛ばしてしまったのです。
妬みと憎しみで沸騰しているときには、その勢いに任せて、人はどこまでも残酷になれます。兄たちは、ヨセフが着ていた服に、獣の血をべったりとつけて持ち帰り、「こんなものを見つけました…」と父に手渡すと、父は、大げさではなく、死ぬほど悲しみ、苦しみました。そして、明けても暮れても悲しみ続けたのです。ヨセフの兄たちは、自分たちがしたことの意味を、また恐ろしさをじわじわと感じていくことになります。けれども、自分たちのしたことは、決して父に知れてはいけない、表には出してはいけないと、そこはしっかり蓋をして、できれば墓場まで持って行こうと決めていたのでした。
私たち人間は、罪を隠しながら、平安に生きることはできません。8月は平和を考える月です。戦争は加害者も被害者も傷つけました。帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)は、戦場での極度の恐怖や暴力の体験が原因で引き起こされ、不眠、フラッシュバック、攻撃性の暴発、アルコールや薬物への依存、社会からの孤立などの深刻な症状を引き起こしました。
また、犯罪者が逃走しているときの心理状態をご存知でしょうか。犯罪心理学によると、彼らは、強い恐怖と不安、極度の緊張、そして孤立感に支配されます。些細な物音や周囲の視線にも過剰反応し、他者すべてが敵や通報者に見える状態になるそうです。そして、冷静な計画を立てるのが難しくなり、その場の勢いで移動や隠れ場所を決めるようになります。それだけでなく、誰にも助けを求められず、知人や家族すら裏切るのではないかと疑い、心理的に完全に孤立します。そして、終わりが見えない逃亡生活により、常に追われるプレッシャーで睡眠障害や精神的追い詰め状態に陥るということです。
罪は、被害者を傷つけるだけでなく、加害者も傷つけます。戦争のような非常時や犯罪者のような例は極端かもしれません。けれども私たち人は、みんな罪人ですから、誰も傷つけないでは生きていけません。私も自覚できるだけでも、数知れず、人を傷つけてきました。もちろん気づかないで人を傷つけていることは、もっと多いでしょう。そして時々それは、フラッシュバックします。子育て中、疲れとイライラの中で、夫や子どもあたったこともありました。友だちを裏切ったこともあります。その記憶は、ふとした拍子に思い出されて、「どうしてあんなことをしたのか」と自分を責めます。また、それを誰にも言えないで、蓋をすることによって、ますます自分を傷つけるのです。
ですから私は、兄たちがどんなに苦しい20年ほどの時を過ごしたかを想像することができます。ある時、父が言うのです。1節「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」
兄たちは互いに顔を見合わせていたのです。飢饉になって2年がたっていました。エジプトに食料があるのは知っていました。年老いた父より、若い人の方が情報に精通しているものです。けれども、それを言い出せなかったのです。なぜか?そこがエジプトだからです。奴隷として売られた弟ヨセフは、生きているだろうか、ばったり会ったらどんな顔をすればいいのだろうか、兄たちは複雑な思いがあって、エジプトから目を背けていたのです。そんな彼らの様子を見ると、彼らは、ヨセフにした仕打ちを、今や後悔していることがわかります。
そして彼らが、ヨセフを売ったことを後悔し、悪かったと思っていることは、彼らの言葉の端々からもうかがえます。例えば、宰相となったヨセフと対面した兄たちは、相手がヨセフだとは知らないまま、問われるままに、家族のことを話します。13節「しもべどもは十二人兄弟で、カナンの地にいる一人の人の子でございます。末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました。」 彼らは、自分たちは12人兄弟だと言います。ちゃんとヨセフをカウントしているのです。ヨセフを兄弟の数に入れています。以前は、こんなやついなくなればいいと思い、殺そうとまでしたヨセフですが、どうしてもいなかったことにはできない、そんな兄たちの後悔の念をここにも見るのです。彼らは言います。「一人はいなくなった」と。もちろん売ったとは言えないのですが、兄弟の一人が今は、自分たちのところにはいないのだと正直に伝えているのです。
そしてスパイ容疑をかけられた彼らは、ヨセフが聞いているとも知らずに、互いに話します。21節「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」弟ヨセフを穴の中に投げ込み、泣き叫ぶ弟の横で、お弁当を広げて食べたあの非情さを、彼らは今悔いている。そして自分たちは、その非情さの報いを今受けているのだと言っているのです。
私は初めに、ヨセフ物語は、単なるヨセフのサクセスストーリーではない、家族の和解の物語だと言いました。兄たちは、過去の自分たちの罪に向き合うことなく、臭いものにふたをし、この罪を墓場まで持っていこうとしていました。ヨセフもヨセフで、「主は忘れさせてくださった」と、過去のつらいことは忘れて、今の幸せを見つめて生きればいいと思っていました。けれども、神さまは、この家族をあきらめていませんでした。そして再び一つにしようとされたのです。
私たちにも、未解決の罪、問題、課題があります。和解しなければいけない人がいるでしょう。目を背けて見ないようにしているかもしれません。たいしたことないよと自分に言い聞かせているかもしれません。自分は悪くないとうそぶき、心は痛むのに、放置しているかもしれません。黙っていれば誰にもわからないと蓋をしているかもしれません。けれども主は、私たちにその罪と向き合い、解決するようにと迫られます。
安心してください。私たちの罪の代価は、すでに支払われています。イエス・キリストが、十字架で私たちの罪を背負い、身代わりに罪の罰を受けて死んでくださいました。そして、主は3日目に、罪と罪の報いである死に勝利し、墓の中からよみがえり、今も生きておられます。 私たちの罪の代価はすでに支払われていますから、私たちは安心して、心に未だくすぶっている過去の罪を主のもとに持っていけばいいのです。心の扉を開いて、イエスさまはお迎えしてください。先日の五十三師の黙示録のメッセージで、「心の扉を開く」とは、未信者に語られているのではなく、まさに私たち、イエスさまを信じている者に語られているのだとありました。私たちは心の扉を開いて、心の奥にある「開かずの間」、異臭を放っているその部屋を空けて、イエスさまをお迎えしましょう。何も隠すことはない。主はご存知です。こうしてすべての部屋を主にお見せして、主イエスさまに、私たちの心の全領域を治めていただく王になっていただきましょう。そうすれば、魂に平安が来ます。祈りましょう。
天の父なる神さま、私たちの心には開かずの間がないでしょうか。兄たちが墓場まで持って行こうとした罪、ヨセフが、もう忘れてしまおうと思っていた心の傷。けれども主はそんな兄たちもヨセフもあきらめなかった。本当のゆるしと和解を彼らに用意しておられたのです。私たちの中にも、まだ開かずの間があるかもしれません。今、御前に心を探り、その固く閉ざした心の扉を開くことができますように。そして心の全領域の主として、王としてイエスさまをお迎えすることができますように。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン
コメント
コメントを投稿