スキップしてメイン コンテンツに移動

父の決断(創世記43章1~15節)

 


「父の決断」

創世記43章1~15

私たちは42章までで、以前とは変わったヤコブの息子たちの姿を見てきました。彼らは、自分たちが、嫉妬に駆られてヨセフにした仕打ちについて後悔していました。弟を古井戸に放り込んで放置し、見殺しにしようとしたこと。またそれは思いとどまったけれど、通りがかりのミデヤン人にヨセフを売ったことを後悔していたのです。父の嘆きや、エジプトで次々と襲ってくる試練の中で、これは自分たちがしてきたことの報いなのだとの罪の自覚も生まれていました。

ヨセフも同じく変わりました。17歳までの彼は、父の寵愛を一身に受け、高慢になり、兄たちを見下しているようにも見えました。兄たちにとっては、鼻持ちならない嫌な奴だったのです。こうしてヨセフは、兄たちに殺されそうになります。けれども兄ユダの提案で、彼はエジプトに売られます。けれどもエジプトで奴隷として仕える中で、また牢獄で囚人たちの世話をする中で、彼は、自らを省み、変えられていったのです。そして、自分の状態によらず、いつも共にいて、結局はヨセフのやることなすことすべてを祝福してくださる神への信仰が育っていきました。

けれどもここで、何も変わっていない人が一人います。それは父ヤコブです。もちろん彼は、ハランで義理の父ラバンに仕える中で、何度も騙され、苦しいところを通ります。そしてその中で、神さまからのお取り扱いを受けました。かつては、その名のごとく、「かかとを掴む者」つまり、人を欺き、蹴落とす者だったのですが、ラバンのもとで20年仕えることによって、変えられていきました。

けれども彼には、まだ乗り越えなければならない問題がありました。それは、子どもたちへの「偏愛」です。彼は、二人の妻、二人の側女、そしてそれぞれの子どもを公平に愛することができませんでした。自分が愛していたラケルの二人の子、ヨセフとベニヤミンを特別扱いしていたのです。そしてそれが原因で兄弟間に不協和音が生まれ、やがてそれは殺意へと変わっていったのでした。そしてヨセフを失った今、その寵愛は同じ妻の子ベニヤミンに向かいました。一回目、エジプトに息子たちを食料を買い遣わした時にも、ベニヤミンは一緒に行かせませんでした。こう聞くと私たちは、まだ幼いベニヤミンを思い浮かべるかもしれませんが、実は彼はもう30歳ぐらいです。ヤコブはこの30歳の息子に執着し、絶対にエジプトにはやらないと言うのです。エジプトには、二番目の息子シメオンが人質のように残されていて、ベニヤミンを連れて行くまで、帰ってくることができないというのに。

神さまは、ヤコブに変わってほしいと思っておられました。愛する子だからこそ変わってほしいのです。そして、ヤコブの成長のために神さまは訓練しました。神の訓練は時に厳しいのです。ヤコブから愛するヨセフを取り上げ、今まさに、ベニヤミンまでも取り上げようとしておられます。(実際には誰も失わないのですが)

神さまは、私たちにも変わってほしいと思っています。私たちも何歳になっても変わりたいと思っているでしょう。神さまは、私たちの中に「キリストをかたちづくり」たいと願って思っておられます。つまり、イエスさまのようになってほしいのです。イエスさまのように、愛する人になってほしい、きよい生き方をしてほしい、そう願っておられます。そして主は、私たちが、御国で「完全なキリストの似姿」「栄光の姿」に変えられるまで、地上では訓練されます。歩き出した赤ちゃんが、両親に見守られながら、あと一歩、あと一歩と励まされて前に進むように、私たちは、御国に入るその日まで、成長するのです。

前置きが長くなりましたが、ここでヤコブがしなければいけない決断は、ベニヤミンを手放すか、一族が生き残る道を選ぶかの決断です。

 

先回エジプトに食料を求めに行ってからどれぐらいたったのでしょうか。10節でユダが、「もし私たちがためらっていなかったら、今までに二度は行って帰れたはずだ」と言っていますから、1年は待ったのでしょう。限界まで待ちました。そして、とうとう、これ以上躊躇していると、一族飢え死にするしかない状態まで追い込まれたのです。

1節「さて、その地の飢饉は激しかった」 原語では冒頭に「飢饉が」となっています。よっぽど激しい飢饉だったのでしょう。今こそヤコブが決断する時です。しかし、ヤコブはそれができない。ヨセフを失ったことは、ヤコブにとってはトラウマでした。ですから、理性では、「そんなこと言っている場合ではない、一族存続のためにも決断しなければ」と思うのですが、どうしてもその事実と向き合えない。そして、「また同じことになったらどうしよう」「ベニヤミンまで失ったら」と悪い方向にばかりに思いが向かうのです。けれども「飢饉が!」とあります。この大きな問題を目の前にして、ようやくヤコブは現実に向き合うことになります。ヨセフを失って以来、ヤコブの時計は止まったままでした。ずっと、過去に生きていたのです。けれども「激しい飢饉」が、さらに大きな苦難が、ヤコブを現実に引き戻し、向き合わせることになったのです。

 

父は言います。「また行って、われわれのために食糧を少し買って来てくれ。」するとユダが答えます。「お父さん、何度も言いますが、エジプトの最高権力者のあの方が、弟のベニヤミンを連れて来なければ、決しておまえたちとは会わせない、食料も売らないと言っておられるのです。どうぞ、ベニヤミンを一緒に行かせてください!」すると老いた父は、子どものように駄々をこねます。「なぜ、お前たちは、弟がいることをその人に言って、私を苦しめるのか!」もう切羽詰まっていますから、ユダも負けてはいません。「あの方が、事細かに聞いて来るのです。まさか、弟を連れて来いと言われるとは思わないじゃないですか。」そして続けます。「お父さん、ベニヤミンを私と一緒に行かせてください。彼を連れて行けば、お父さんも私たちも生き延びることができるのです。」そしてついにユダは意を決して次のように言います。9節「私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。」

実は、一回目の食料買い出しから帰って来てすぐに、長男ルベンも父を説得して言っています。42章37節「もし私がこの弟をあなたのもとに連れ帰らなかったら、私の二人の子を殺してもかまいません。彼を私に任せてください。この私が彼をあなたのもとに連れ戻します。」けれどもこの申し出に対して、ヤコブは「ベニヤミンは、お前たちとは一緒に行かせない」ときっぱりと断っています。この時は、まだ切羽詰まっていなかったということもあるでしょうが、ユダのことばは、父の気持ちを動かす何かがあったことがわかります。ヤコブを動かしたキーワード、それは、「私自身が」「保証人となる」「責任を負います」それはつまり「一生この罪を負う」ということでした。本来一家の家長であるヤコブが、家族の責任を負うべきでしょう。けれども、ベニヤミンを失うことを恐れるあまり、父としての責任ある決断ができないでいたのです。そんなヤコブが、ユダの「私が責任を負う!」と言った、その毅然とした態度に、「ああ、自分は何をしているのだ」と我に返ったのでした。

ユダはこの後、先祖アブラハムから続いた霊的な祝福を受け継ぐことになります。ユダ本人が、そのことを自覚していたとは思えませんが、おそらく聖霊が、ユダに強く臨み、この言葉を言わしめたのだと思います。実際この時のユダの言葉は、イエス・キリストを彷彿とさせます。ユダの子孫からやがてはダビデ王が生まれ、その後さらに時代を経て、イエス・キリストが生まれます。イエス・キリストは、人の罪を負い、十字架にかかり、罪の刑罰をその身に受けて、死んでくださいました。言い換えると、私たちの保証人になり、私たちが抱える膨大な罪という借金を肩代わりして、責任をもってすべて払ってくださったのです。自分の血の代価をもってです。

ヤコブは四男ユダの覚悟に勇気を得ました。そして一歩を踏み出す決心がついたのです。11節以降、彼はベニヤミンを含む子どもたちを、食料を得るためエジプトに送るために、具体的な話をし始めます。エジプト人が好みそうなこの地の名産品を持って行くように命じ、前回返されていた銀も、二倍にして持って行くように指示します。そして13節「弟を連れて、さあ、その方のところへ出かけて行きなさい!」と言うのです!とうとう決断できました! 彼は自分の手の中にギュッと握っていたものを、家族への愛のゆえに、神さまに差し出すことができました。

 

ヤコブの決断は信仰の決断でした。それは、ヤコブの言葉から分かります。14節「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」

ヤコブは「全能の神」と信仰の告白をしています。創世記の中で、天地創造の神を「全能の神(エルシャダイ)」と呼び掛けている個所は、意外に少なく5か所です。そしてその内4回は、ヤコブの生涯の中で使われています。ヤコブは何も、ユダが責任をとって保証人となってくれるから安心だと決断したわけではないと思うのです。ユダには、そんな力も権限もありません。けれども、ユダが信頼してより頼んでいる全能の神をそこに見たのでしょう。そして、思い出した。「ああ、我らが寄り頼んでいる神は全能の神だった。神にできないことはないのだった。自分は何を怯えているのだ!」ここでヤコブは、「もう一人の兄弟(シメオン)とベニヤミンを渡してくれるように」と祈りました。そう、人質になっているシメオンもヤコブの愛する息子だったのです。そして、ベニヤミンだけではなく、自分自身さえも手放していくのでした。「私も、息子を失うときには失うのだ」というのは、自暴自棄になったヤコブのため息交じりの言葉ではなく、彼の精一杯の信仰告白だったのです。「私のいのちも生涯も、ベニヤミンも、他の息子たちも、この家族、一族みんな主のもの。私がこの手で握りしめて守るものでも、守れるものでもない。主の御手にお任せしよう。今は亡きヨセフも主の御手の中にあるなら、それは大きな、大きな慰めではないか…。」ヤコブはそんなことを思ったのではないでしょうか。

 

有名なハイデルベルグ信仰問答問1が思い出されます。

 

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答え わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。

実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。

 

私たちには、恐れていることがあるでしょうか。自分の手に固く握って、手放せないことはあるでしょうか。そのせいで、決断を先延ばしにしていることがあるでしょうか。自分の人生を自分で守ろうとするから、私たちは不安になり恐れるのです。私たちの人生を丸ごと、全能の主にゆだねるときに、自信と勇気が湧きあがって来るでしょう。そして前を見て、次の一歩を踏み出すことができるのです。お祈りしましょう。

 

天の父なる神さま、年老いたヤコブが、必死にわが子ベニヤミンを守ろうとする姿に、私たち自身が重なります。けれども、命はあなたのものでした。今、固く握っている手を開き、あなたにおゆだねします。どうぞ私たちの人生を主ご自身が導いていください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



コメント

このブログの人気の投稿

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...

ここは天の門(創世記28章)

「ここは天の門」 創世記28章   エサウのヤコブへの怒りが、あまりに激しく、殺意さえ抱いていることが分かった母リベカは、ヤコブを自分の故郷へ送り出すことを思いつき、夫イサクに提案します。イサク自身も、彼の父アブラハムが、イサクのお嫁さん探しに、わざわざハランにしもべを遣わして、妻リベカを見つけ出して連れて来てくれたことを思い出し、それに賛同します。また伏線としては、エサウの二人の妻のことがありました。彼女たちは、イサクとリベカの悩みの種でした。アブラハム、イサクのモットーは何だったでしょうか。「和して同せず」、カナンの地で平和を保ちつつ、なお神の民としてのアイデンティティを固守することではなかったでしょうか。二人の妻の何か問題だったかは、具体的に書かれていないのでわかりませんが、異なった神を礼拝する嫁たちは、生活の中にそれらを持ち込んだのではないかと推測できます。ですから、ヤコブの結婚相手は、なんとしても創造主にして唯一である神を礼拝する女性であってほしい、そんな願いがあったのではないでしょうか。 一方エサウはこの後、イサクがヤコブを祝福して送り出したこと。またリベカの故郷から妻を迎えるよう指示したことを知りました。しかも、その時に、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じていたことも知りました。それでエサウは、今いる妻たちのほかに、おじいさんのアブラハムが女奴隷ハガルに産ませた子ども、イシュマエルおじさんの娘を妻に娶ることにしたのです。例えるなら、欠陥住宅自体には、なんの修理もしないまま、その欠陥を補うために、建て増しするようなものです。彼に欠けているのは、心からの悔い改めだったと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 話しは戻りますが、イサクはこの時にはすでに、ヤコブが神の祝福を引き継ぐ後継者であることを認めていました。神のみこころを求めないで事を進めても、神は道を閉ざされることを彼は学んだことでしょう。ただ、ヤコブを祝福の後継者とするならば、本来ヤコブではなく、エサウを外に出すべきなのですが、さすがにヤコブのしたことがあまりに卑劣だったことと、エサウの怒りが収まるために冷却期間が必要だったこと、そして、ヤコブを後継者とするためには、結婚が欠かせなかったために、イサクは、エサウはそばに置いたまま、ヤコブを遠くハランに送り...

主が私たちを喜んでおられるなら(民数記13:25 ~14:9)

2025 年 9 月 7 日  塚田 響 実習生  「主が私たちを喜んでおられるなら」 民数記 13 章 25 節〜14 章 9 節  みなさんおはようございます。・・・   今朝は、民数記の箇所から、共にみことばに聞いていきたいと望んでおります。みことばに 見ていく前に、一言、お祈りいたします。  13 章 1 節「カナンの地を前に」(導入)     今朝共に見ていきます民数記の箇所は、出エジプトしたイスラエルの民がいよいよ、神様の 導き入れようとしておられるカナンの地(約束の地)に、入っていこうとしている場面に当た ります。その地に入っていくにあたり、イスラエルから 12 人の族長たちが偵察をするために、 カナンの地に遣わされました。先程お読み頂いた 13 章の 25 節からの箇所は、その偵察に行っ た族長たちがイスラエルの民の元に戻ってきた場面に当たります。しかし、その偵察の結果を 見ていくと、偵察して来た人々の間では、意見の相違があったことがわかります。同じ地を見 に行った 12 人でしたが、彼らの間では、意見が真っ二つ・・・“その地に上りましょう!その 地に上ることはできません!”と正反対な結論が生まれてしまったのです。   なぜ、このような違い、対立が生まれてしまったのでしょう。  私たちの対立   さて、激しい対立は、誰もが一度は経験したことがあることかもしれません。そのエネルギ ーの激しい消耗を考えるとなるべく避けたいものだと思います。 対立の経験を振り返るときにわかるのは、その「対立の激しさ」というのは、両者における その「トピックの深刻さ」を表しているということではないでしょうか。  イスラエルの民にとって、この場面は、ここ一番!これからの歩みが分かれる、分岐点のよ うな、重要な場面でした。   結論から述べますと、この対立によって、イスラエルの民の大半、そのほとんどは約束の地 に入ることができませんでした。イスラエルの民の大半のうち、カレブとヨシュアのみ、それ からイスラエルの民の子どもたちの世代が約束の地に入ることができたのです。カレブにおい ては、続く箇所の 14 章の 24 節の神様の言葉の中にあるように「(カレブは)わたしに従い通 した」と言われています。...