スキップしてメイン コンテンツに移動

泣いたヨセフ(創世記43章16~34節)

 


「泣いたヨセフ」

創世記431634

 

前回のエジプト訪問から2年が経過しました(45:6より)。今回の食料買い出しのときには、次回エジプトに来るときには、必ずベニヤミンを連れて来るようにと言われていました。そしてこのことがネックになって、ヤコブの一族は、2年もの間、エジプトを訪れることができなかったのです。その間、ヤコブの息子たちは、ベニヤミンをエジプトに行かせたがらない父ヤコブを説得し続けました。そしてついに、四男ユダの「ベニヤミンに何かがあったら自分が責任を取る」「命がけで守る」との真に迫った力強い説得によって、ヤコブはやっとベニヤミンの手を放し、神さまと息子たちにゆだねることにしたのです。

 

今日のテキストは、ヤコブの息子たち一行がエジプトに着いたところから始まります。ヨセフは、兄たちが再びエジプトに来るのを、今か今かと首を長くして待っていました。16節「ヨセフは、ベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家を管理する者に言った。『この人たちを家に連れて行き、家畜を屠って料理しなさい。この人たちは私と昼食をともにするから。』」なんだか、新約聖書の放蕩息子が放蕩の限りを尽くした後、悔い改めて家に帰って来たときの様子と重なります。この時父親は、遠くからすっかりみすぼらしくなってしまった息子を見るや否や、駆け寄って、抱いて口づけし、子牛を屠って大宴会を催したのです。

ヨセフは、まだ自分の正体を明かすのは早いとわかっていましたが、なつかしさに何かをしないではおられず、彼らを食事に招いたのでした。

ヨセフの家の管理を任されているその人は、恐らく、2年前に彼らが来た時に、主人ヨセフに命ぜられるまま一人ひとりの袋に、食料の代金として持ってきた銀を戻しておいたその人だったと思われます。彼は、ご主人様とこのヘブル人たちとは、どんな関係なのだろうかといぶかしがりながらも、主人に命ぜられるまま、彼らをヨセフの自宅へと招きました。

驚いたのは、ヨセフの兄たちです。驚いたというより、恐怖が走りました。そして互いに顔を見合わせながら言うのです。18節後半「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」彼らは、恐怖で足が進まず、とうとう入口のところで立ち止まってしまいました。そして、その管理人に言うのです。20節「ご主人様、最初のとき、私たちは食糧を買いに下って参りました。ところが、宿泊所に着いて、袋を開けると、なんと、私たちの一人ひとりの銀がそのまま自分の袋の口にあったのです。それで、私たちはそれを返しに持って参りました。また、食糧を買うために、別の銀も持って参りました。だれが私たちの銀を袋の中に入れたのかは、私たちには分かりません。」必死の形相でそう訴える兄たちに対して、その管理人は、微笑みながら、優しく答えました。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」 「安心しなさい」は、ヘブル語で「シャローム」(エジプト人が使うアラビア語では、「サラーム」と言い、語源を同じくする)です。そして驚いたことに、エジプト人の彼が「あなたがたの神、あなたがたの父なる神が…」と言うのです。おそらくヨセフは、異教の地エジプトに長く住んでいても、天地万物を創造され、先祖アブラハムに祝福の約束を与えた神を信じ、礼拝していたのでしょう。また、高い身分にあってもおごることなく、いつも誠実なヨセフに仕える中で、この管理人も真の神を礼拝するようになっていたのかもしれません。この人は、以前彼らの袋に返しておいた銀について、正直に告白し、その銀をもって今回の代金にすることなく、それを返したうえで、今回は別の銀を持って来たという彼らの言葉を聞いて、「ああ、この人達は、私のご主人さまと同じ神を神とする人たちなのだな。この神を信じる者は、神の前にも人の前にも誠実なのだな」と感心したことだと思います。

ヨセフの兄たちは、「安心しなさい。恐れることはありません。」との言葉かけを受け、2年間捕虜として捕らえられていたシメオンも連れて来られ、安心しました。そしてヨセフの兄たちは、勧められるまま、家の中に入ります。そして、先ほど18節の終わりでは「ろばとともに捕えるためだ」と恐れていたのですが、彼らだけでなく、彼らのろばさえも、餌を与えられ、旅の疲れをねぎらわれたのです。

 

ヨセフは、食料を買いに来る人々への対応があったのでしょう。帰ってくるまで、少し時間がありました。その間にヨセフの兄たちは、例のヘブロンから持って来たお土産を準備しました。「乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、ピスタチオとアーモンド」です。そして、落ち着かないまま、ヨセフの帰りを待ち、ヨセフが帰ってくると、準備したお土産を差し出し、自分たちは、地に顔を伏してお辞儀をしたのでした。彼は再び、17歳の頃のあの夢を思い出したことでしょう。そして、もう一つの夢、太陽と月と11の星が彼を伏し拝む夢をも思い出し、もう一度家族全員が一堂に会し、和解する時が来るのだと確信し、その時が実現するまで、決して自分の素性を明かしてはならないと肝に銘じたのです。

ヨセフはひれ伏す兄たちを見、また、先回はいなかった男がそこにいるのを見ました。ヨセフは彼に目を留め、聞きました。29節「これが、おまえたちが私に話した末の弟か。」そして続けて「わが子よ、神がおまえを恵まれるように。」と言ったところで、限界がきました。30節「ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。」とあります。先ほども触れたように、彼はまだ神の和解のご計画の途中であることを知っていました。ですから、ここではこみ上げてくる感情を押し殺して、人気のいないところで、ひとしきり泣いて、顔を洗って、何ごともなかったように顔をして、「食事を出せ」と命じたのでした。

私たちも、感情をストレートに表現しないで、制御することがあるでしょう。私が思い出すのは、台湾で末の娘が、お風呂上りに滑って転んで、ベッドの縁(へり)におでこをぶつけケガをしたときのことです。その時、主人は留守でした。私は血だらけになって、激しく泣く娘を見て、動揺しました。夜ですから、もう病院はしまっています。救急病院に行く必要があります。私はすぐに電話をしてタクシーを呼びました。受話器が持つ手が震えているのがわかります。声も震えています。いつも、子どもを病院に連れて行くのは、主人の役目でした。私のつたない中国語で通じるだろうか。大きな傷跡が残ったらどうしよう。心の中で、「神さま!」と叫びながら、救急に向かうタクシーに乗りながら、それでも、娘を不安がらせてはいけないと、心の動揺を隠しながら、「大丈夫だよ」「すぐ病院に着くからね」「泣かないよ」「きれいに治るよ」と極力やさしく語りかけたのです。

私は今、「感情のマネジメント」というプログラムを教えていますが、そのテキストの中で、「感情の表出をするときには、自分が本当に願っていることを思い出すように」と教えます。自分の感情をストレートに出す時に、自分の願う結果とは別の結果を生むことがあるからです。先の例えのように、娘が怪我をして病院に連れて行くときの私の願いは何でしょうか。それは、娘が落ち着いて、安心して治療に向かうことです。しかもなるべく早くです。ですから、私は、心にある不安を表に出さないようにしました。この時のヨセフも同じです。二つ目の夢の実現のために、今は、涙を見せてはいけなかったのです。彼は奥の部屋でひとしきり泣いて、顔を洗って、化粧を直し(古代エジプト人は化粧をしているイメージがある)、平静を取り戻して自分を制し、「食事を出せ」と命じたのです。

 

エジプト人は、外国人と同じものを食べ、テーブルをともにすることをしません。宗教的、文化的に食事の禁忌があるからでしょう。あるいは、ヨセフはヘブライ人の食習慣を知っていて、それを配慮して、別の食事を用意させたのかもしれません。けれども、恐らく同じ部屋で、声の届く距離で、楽しい食事の席を用意したのです。

不思議なことに、ヤコブの息子たちは、歳の順に座らせられました。彼らは驚きました。小さい頃ならまだしも、いい年をしている中年のおじさんたちです。兄弟の歳の順など、はたから見てわかるはずがありません。けれども彼らは、偶然歳の順に並んだんだとしか思えなかったようです。「えっ?見て、見て!これって歳の順じゃない?」「本当だ!こんな偶然あるんだね~」という感じです。

そして、ヨセフはもう一つトリックを入れました。母を同じくする末の弟ベニヤミンだけ、食事の量を増やしたのです。しかも5倍! きっとヨセフは兄たちを試したのでしょう。以前、父の愛を一身に受けていた自分に対し、いつもつらく当たっていた兄たち、嫉妬のためにヨセフとは穏やかに話せなかった兄たちが、今や父の愛を一身に受けているであろうベニヤミンにどのような対応をするのか見たかったのです。ところが、兄たちは、全くそのことに関心を示さなかったようです。睨みつけたり、嫌味を言ったりする兄はいませんでした。彼らは和やかに食事をし、機嫌よくお酒を飲み、そして、酔い心地になっていったのです

 

和やかに食事をし、酔い心地になっている兄たちを見ながら、ヨセフは何を考えていたのだろうかと想像します。最後に兄たちが食事をしているのを見たのは、穴の中でした。兄たちはヨセフの上着を引き裂き、深い穴に放り込みました。そして、痛みと苦しみの中、「兄さん、助けて! ここから出して!」と泣き叫ぶヨセフの声を聞きながら、兄たちはその横で食事をしたのでした。おそらく、何事もなかったかのように、談笑しながら、食事をしていたのでしょう。ヨセフは、その時のことを思い出していたのではないかと思うのです。本来彼らが食事をする姿などは見たくないはずです。

けれどもヨセフは思ったのです。神さまが和解の計画を進めておられるなら、私がそれを止めてはいけないと。そして、彼らを食事に招くところから、始めたのです。いつか、神さまのご計画の中で、家族がそろう、あの夢の実現を見るために、まずは私から和解の手を広げ、彼らを迎え、食事をともにするのです。

ヨセフと兄弟たちとの和解は、もう少し先です。この後兄たちが必死でベニヤミンを守ろうとするのを見たときに、ヨセフはそこに自分を重ね、兄たちを本当の意味でゆるしていくのでしょう。けれどもその本当の和解に先立ってヨセフは兄弟を食事に招いたのです。それは彼らを「ゆるす」という決意であり、「ゆるそう」という意思のあらわれだったと思うのです。

そう言えば、イエスさまはいつも罪人を食事に招いておられました。世の中のはみ出し者、罪人と言われる人たちといつも食事をしておられました。木に登りイエスさまが通り過ぎるのをじっと見ていた取税人のザアカイに、「今晩はお前のところに泊まることにしているよ」と声をかけ、いっしょに食事をされたイエスさま。5000人がおなかをすかせていたときに、イエスさまは、彼らを食事に招き、お腹いっぱいにしました。そして、復活のイエスさまが、テベリヤ湖畔で、朝ごはんを準備して、弟子たちを招いたこともありました。

ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」イエスさまは、私たちがふさわしいから、食卓に招くのではありません。罪人のままの私たちを食卓に招き、まずはイエスさまの方から和解の道を示されたのです。イエスさまは、自ら私たちの罪を背負い、十字架で罰せられ、私たちと神との間にある罪という隔ての壁を打ち破り、よみがえり、そして私たちを天の御国での食卓に招かれておられます。毎月もたれる聖餐式は、天の食卓を待ち望む意味もあります。

ふさわしくない私たちが天の御国の食卓に招かれているのですから、私たちもヨセフのように、そしてイエスさまのように、わだかまりを持つ誰か、意志を持って、招いていきたいと思うのです。そして、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈る者でありたいものです。

 

私たちを御国の食卓に招いておられる天の父なる神さま、御名を賛美致します。ヨセフは兄弟たちを赦す決意をもって自分の家に招き、もてなしました。イエスさまも、ふさわしくない私たちを恵みをもって招いて、ともに食事をしてくださるお方です。私たちもこのイエスさまの愛に応える者としてください。そしてわだかまりを持つ誰かを招いていくことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

コメント

このブログの人気の投稿

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...

ここは天の門(創世記28章)

「ここは天の門」 創世記28章   エサウのヤコブへの怒りが、あまりに激しく、殺意さえ抱いていることが分かった母リベカは、ヤコブを自分の故郷へ送り出すことを思いつき、夫イサクに提案します。イサク自身も、彼の父アブラハムが、イサクのお嫁さん探しに、わざわざハランにしもべを遣わして、妻リベカを見つけ出して連れて来てくれたことを思い出し、それに賛同します。また伏線としては、エサウの二人の妻のことがありました。彼女たちは、イサクとリベカの悩みの種でした。アブラハム、イサクのモットーは何だったでしょうか。「和して同せず」、カナンの地で平和を保ちつつ、なお神の民としてのアイデンティティを固守することではなかったでしょうか。二人の妻の何か問題だったかは、具体的に書かれていないのでわかりませんが、異なった神を礼拝する嫁たちは、生活の中にそれらを持ち込んだのではないかと推測できます。ですから、ヤコブの結婚相手は、なんとしても創造主にして唯一である神を礼拝する女性であってほしい、そんな願いがあったのではないでしょうか。 一方エサウはこの後、イサクがヤコブを祝福して送り出したこと。またリベカの故郷から妻を迎えるよう指示したことを知りました。しかも、その時に、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じていたことも知りました。それでエサウは、今いる妻たちのほかに、おじいさんのアブラハムが女奴隷ハガルに産ませた子ども、イシュマエルおじさんの娘を妻に娶ることにしたのです。例えるなら、欠陥住宅自体には、なんの修理もしないまま、その欠陥を補うために、建て増しするようなものです。彼に欠けているのは、心からの悔い改めだったと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 話しは戻りますが、イサクはこの時にはすでに、ヤコブが神の祝福を引き継ぐ後継者であることを認めていました。神のみこころを求めないで事を進めても、神は道を閉ざされることを彼は学んだことでしょう。ただ、ヤコブを祝福の後継者とするならば、本来ヤコブではなく、エサウを外に出すべきなのですが、さすがにヤコブのしたことがあまりに卑劣だったことと、エサウの怒りが収まるために冷却期間が必要だったこと、そして、ヤコブを後継者とするためには、結婚が欠かせなかったために、イサクは、エサウはそばに置いたまま、ヤコブを遠くハランに送り...

私は主をほめたたえよう(創世記29:31~30:24)

「私は主をほめたたえる」 創世記 29 章 31 ~ 30 章 24 節 創世記をずっと学んでいますが、今日の個所は、思わず目を覆いたくなるようなストーリーが展開されています。二人の姉妹が一人の夫に嫁ぎ、一人は愛され、一人は嫌われ…。ところが嫌われている妻が次々と子を産み、愛されている妻には一向に子どもが与えられない。渦巻く嫉妬の嵐と駆け引き、もはや修羅場と言ってもいいような悲惨な状況です。日本の昼ドラでもこれほどの愛憎劇は見られないでしょう。 彼らはどこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか。それはやはり、ヤコブが姉妹二人を娶ったこと、その決断をしたことに問題があったと思うのです。ヤコブは、ラケルと結婚したくて、7年ものきつい労働に耐えたのですが、結婚初夜に寝室に送られてきたのは、姉のレアでした。翌朝、レアとラケルの父ラバンに騙されたと知ったヤコブは、ラバンに抗議するのですが、ラバンは、しれっと「姉より妹を先に嫁がせることはしないのだ。ラケルもほしければ、さらに7年働くように」と言うのです。ヤコブは、ラケルをあきらめきれず、その 残酷な 提案を飲むのです。誰に対して残酷なのでしょう。レアに対して、そしてラケルに対してです。そしてその結果が、今日見るこの家庭の修羅場です。 ヤコブはどうすればよかったのでしょうか。私は、彼はラケルをあきらめるべきだったと思います。そして、レアだけと結婚し、7年でハランを引き上げ、故郷に帰るべきだったのです。アブラハムへの祝福の契約は、サラを通して、その子イサクに引き継がれ、イサクとリベカによって、ヤコブに引き継がれました。今、神はレアを選んで、レアを通して祝福を継承しようとしているのだと、ヤコブは悟り、自分の好みではなかったとしてもレアとの結婚生活を大切に育めばよかったのです。そもそもヤコブはなぜラケルに固執したのでしょうか。ラケルが美しかった、それだけです。それだけとは言っても、男性にとっては重大なことなのでしょう。一般的に言われるのは、女性は好きという感情がない相手でも、誠実で尊敬できる相手であれば、結婚の対象として考えられるのですが、男性は、女性としての魅力が感じられないと結婚は考えられないのだそうです。けれども、そもそも結婚は、自分が幸せになるためにするのでしょうか。そうではなく、相手を幸せにするために結婚す...