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ユダの切実な訴え(創世記44章1~34節)



「ユダの切実な訴え」

創世記44章1~34節

 

1節 ヨセフは家を管理する者に命じた。「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。」

ヨセフの兄たちは、不安な気持ちでエジプトを訪れたのですが、ヨセフから思わぬ歓待を受け、ああ、今回はなんのトラブルもなさそうだと安堵しながら床に就き、(どうやらそのままヨセフの家に泊まったようです)明け方には起き出して、出かける支度をし、さあ、父のもとへ帰ろうと、旅立ちました。ろばの背には、袋いっぱいの食糧が積まれています。ベニヤミンも無事だし、父の喜ぶ顔を思い浮かべながら帰途に着いたことでしょう。

ところが、またもやヨセフが彼らを罠に陥れます。例の家の管理を任せている者に、「私の杯、あの銀の杯を、一番下の者の袋の口に入れておけ!」と命じたのでした。管理人は、昨晩はあんなに仲睦まじく共に食事をしておられたのに、このお方は何を考えているのだろうといぶかしんだことでしょう。けれども、「あのお方のことだ、何かご計画があるに違いない」と、ヨセフに命ぜられるまま、ご主人が大事にして、いつも使っている銀の杯をベニヤミンの袋に忍ばせたのでした。

 

ヨセフの兄たちが、まだ遠くに行かないうちに、ヨセフは管理人に命じます。4-5節「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」 管理人はヨセフに命ぜられるまま、すぐに彼らの後を追い、この言葉をそのまま告げるのでした。

驚き、恐れたのは兄たちです。昨夜は、あんなにお互い打ち解けて、ともに酒を飲み交わしたあのお方が、そんなことをおっしゃるなんて! 彼らはひれ伏しながらも、すかさず反応します。7-8節「あなた様は、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなど、あり得ないことです。先回返された銀でさえ、カナンの地からあなた様のもとへ返しに来たではありませんか。どうして、あなた様のご主人の家から銀や金を盗んだりするでしょう。」 彼らは兄弟ですから、お互いのことをよく知っています。この期に及んで、そんなことをする兄弟はいないと彼らは互いを固く信じていました。だからついつい言い過ぎた。9節「しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」

けれども管理人は言います。10節「今度も、おまえたちの言うことはもっともだが、それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」管理人は、ご主人さまであるヨセフが、昨夜も一番下のベニヤミンを特別に慈しんでいる様子を見ていました。今まで見たこともないような愛にあふれた目でベニヤミンを見ていました。銀の杯はそのベニヤミンの袋に入っているのですから、彼を殺したりするのは、ご主人のさまの本意ではない。そして彼は、彼らの申し出を退け、ヨセフに言われたとおりに実行します。

 

彼らは、そんなことがあるはずがないと、自分たちの荷物を下ろし、食糧を入れている袋の口を開けました。年長の者から順に調べました。昨夜の食事の席で、管理人は兄弟の歳の順を把握していました。それは、ベニヤミンの袋にあることは分かっていますが、最初からベニヤミンの袋を開けては、策略がばれてしまいます。ですから年長者から順に一人ずつ調べたのです。

ところがなんということでしょう。その銀の杯は、ベニヤミンの袋から見つかったのです! ベニヤミンは「僕じゃない、僕は盗んでいない」そう必死で訴えていたことでしょう。兄たちは、顔面蒼白!「そんなバカな!!」 そしてすぐに気づいたことでしょう。「これは罠だ!」あのお方は、ベニヤミンに執拗にこだわっていた。次に来るときには末の弟が一緒でなければとシメオンを人質に取り、昨夜もベニヤミンだけに5倍の料理を出していたではないか。そして、彼らはショックで、自分の衣を引き裂きました。兄たち全員です! 思い出すと、彼らは過去に、ヨセフの長服を、父からの寵愛の象徴である、あの長い袖の服を引き裂き、彼を深い乾いた穴の中に投げ入れました。そして、その長服に獣の血をべったりと塗りたくり、それを父に見せたとき、父は、悲しみ、嘆いて、自分の衣を引き裂いたのでした。彼らの民族にとって、衣を裂くという行為は、深い嘆きを表しているのです。けれども今、兄弟たち全員が、彼らの衣を引き裂いたのです。今やベニヤミンを失うことは、兄弟たち全員に嘆きであったのです。また、父のベニヤミンを失ったときに父の嘆きを想像すると、彼らは衣を引き裂かずにはおられませんでした。彼らは、すぐにろばに荷物を積みなおして、ヨセフのもとへと向かいました。ベニヤミンを残して、自分たちだけ、帰るわけにはいかないからです。

ヨセフの家に戻ると、「ヨセフはまだ、そこにいた」(14節)とあります。彼は仕事には行かないで待ち構えていたのです。彼らは、またもヨセフの前にひれ伏します。昨晩はあんなに親しげにともに食事をしたヨセフが、冷たい、怒りに満ちた目で兄弟たちを見つめ言います。15節「おまえたちの、このしわざは何だ。私のような者は占いをするということを知らなかったのか。」ヨセフが銀の杯を使って、占いをしていたとは思いませんが、彼にとってそれは、とても重要なものだと言わんがために、このように言ったのでしょう。

 

そこでユダが出てきます。そして言います。16節「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」 「神がしもべどもの咎を暴かれた」とはどういう意味でしょうか。ユダは分かっていました。ベニヤミンは銀の杯を盗んではいない。このヨセフの仕打ちは、かつて自分たちがヨセフに対して行った恐ろしい罪への神からのさばきなのだと。20年以上も、自分たちは沈黙を守ってきました。この罪は墓場まで持って行こうと決心していたのです。けれども、神が我々の罪を暴かれた。今、かつてのあの罪の報いを受けているのだ! ユダはそう思ったのです。

ヨセフはユダの言葉を聞くと言います。「そんなことをするなど、とんでもないことだ。その手に杯が見つかった者、その者が私の奴隷となるのだ。おまえたちは安心して父のもとへ帰るがよい。」ヨセフの心の内は、想像することしかできませんが、「兄さんたちの真の悔い改めを見せてくれ、父への愛を、ベニヤミンへの愛を見せてくれ」そんな思いだったと思うのです。かつてのことは、もうゆるしている。すべてはエジプトと近隣諸国を飢餓から救うために、神がなされたこと。けれども、あの時の傷は、ヨセフの心の中で氷のように冷たいかけらになって、なおも心の奥底に刺さっていたのかもしれない。兄たちよ、私のこの氷を溶かしておくれ…、ヨセフはそんな思いではなかったと想像するのです。

18節から34節まで、ユダの必死の訴えが書かれています。一人の人の語りとしては、創世記の中で一番長い語りです。ユダのメッセージの内容は、一言でいうとこういうことです。父がどんなにベニヤミンを愛しているか。もし今回、ベニヤミンを連れて帰らなかったら、父はあまりに大きな悲しみと嘆きに耐えらず、恐らく死んでしまう。どうか、どうか弟を返してほしい。代わりに、自分がここに残る。奴隷となる。ですから、どうかベニヤミンを兄たち一緒に返してほしい。

このユダの必死の訴えを読みながら、私は心に引っかかったことがあります。27節です。ユダは父ヤコブの言葉を引用しています。「私の妻は二人の子を産んだ」 まるで自分には一人の妻しかおらず、その妻が産んだ二人の子どもしかいないような言い方です。ユダやベニヤミン以外の子どもは、もう一人の妻、レアや二人の女奴隷の子どもたちです。私たちは父ヤコブにとって何なのだと言いたくなるような言葉です。けれども、ユダは、父ヤコブが語った言葉をそのままここに引用しています。そして30節「父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう」 父のいのちは、ヨセフなき今、ベニヤミンと深くつながれている。一心同体と言っても過言ではない。二人は一つなのだ。それはヨセフを連れ帰らなったときの父の嘆きと悲しみでよくわかった。私たち全員のいのちが合わさっても、ベニヤミン一人のいのちには及ばないのだと言っているようです。しかもユダは、そのことについて、なんの卑屈な思いも持っていないような言い方です。すべて受け入れている。そして、その上で、ベニヤミンの命乞いをし、自分が身代わりになると訴えているのです。そして、彼の長いメッセージの中には、そんな偏愛の父への愛に満ちています。受ける愛ではない、ギブ&テイクの愛ではない、ひたすら与える愛に満ちているのです。

 

ユダの中に、一方的で無条件の愛を見るときに、私たちはあのお方の愛を思い出します。そう、イエス・キリストです。イエスさまは、敵対するものによって十字架につけられたときに言いました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」そして、ご自分に向かって、唾を吐き、「おまえが神の子なら、十字架から降りて自分を救え!」とあざ笑う人々をゆるし、ご自分を犠牲にして、彼らの罪のために、身代わりに罰を受けてくださったのです。

罪は償われなくはなりません。ユダは、「神がしもべどもの罪を暴かれたのです」と告白しました。墓場まで持って行こうとした罪、けれども神はそれをゆるさなかった。私たちの罪は必ず暴かれ、さばかれる、そして償いを要求されるのです。けれども、私たちは自分たちでは償えません。この罪が赦されるために、私たちは何をもって償えるのでしょう。私たちには自分の罪を償う何も持っていないのです。他の誰かが、身代わりに償ってくださらなければ、決して償えないのです。罪を犯した本人ではなく、他の誰かが償う、それが「贖い」です。イエス・キリストは、罪を償えない私たちの代わりに、人としての歩みの中で、一度も罪を犯さなかったご自身を差し出して、私たちの罪を償って(贖って)くださったのです。なぜでしょうか。私たちのことを愛しているからです。私たちを永遠の滅びに向かわせたくない。罪ゆえの苦しみ、悲惨から解放してあげたい、そんな愛のゆえに、イエス・キリストは贖いを成し遂げてくださったのです。祈りましょう。

 

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

天の父なる神さま、御名を賛美します。ユダの必死の訴えを見ました。求めても求めても与えられなかった父の愛、けれどもそれでもユダは父ヤコブを愛し、父の悲しむ姿を見たくないと、自分を身代わりに差し出したことでした。ユダの姿は、来るべきお方のひな型でした。無条件の愛、見返りを求めない愛は、私たちの中にはありません。イエス・キリストだけが、無条件の愛を持っておられ、その愛で私たちを愛し、私たちのために命を捨ててくださったのでした。どうぞそんなイエスさまのご愛に応えて、私たちは今日も感謝と賛美をささげることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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