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5月, 2022の投稿を表示しています

夜中まで語り続け(使徒の働き20:1〜12)

「夜中まで語り続け」 使徒の働き 20:1~12 先週はエペソでの大騒動のお話しでした。銀細工人のデメテリオが、パウロのせいで商売上がったりだと人々を扇動して暴動を起こし、「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス!」と二時間も騒いだという出来事でした。しかしこの暴動は、アルテミスへの信仰心から出たことではなく、自分たちの利益を守るためのものだったのです。私たちは、手で造った偶像ではなく、私たちを造られた創造主なる神を信じています。しかし、もし自分の利益のために、自分の欲求を満たすために、神さまを利用しようとしているならば、それは創造主なる神さまを信じているつもりで、実は偶像礼拝になっているかもしれませんよというメッセージでした。 今日は、20章1節「騒ぎが収まると」から始まります。パウロはこの騒ぎが収まると、マケドニアを通って、エルサレムに行くという計画を実行に移します。そして不安がるエペソの兄弟姉妹を呼び集めて、「神さまが皆さんの信仰、そして教会を守ってくださるから。大丈夫ですよ。」と励まし、別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。そして途中通過する町々、村々(ピリピ、テサロニケ、ベレアなど)で、できるだけたくさんの教会、兄弟姉妹に会って、多くの言葉をもってキリストの弟子たちを励ましました。恐らくマケドニア地方を訪れたこの時に、エルサレム教会に持って行く献金を預かったのでしょう。こうしてギリシア、つまりコリントの町に着きました。そしてコリントから、エルサレムのあるシリア行きの船に乗るつもりでした。しかし、おそらく季節は冬、航海するには適さない時期だったのでしょう。春になるまで、3ヶ月ほど待ったようです。 そして、やっと船が出ることになった矢先に、パウロに対するユダヤ人の陰謀が発覚しました。どんな陰謀だったかは、具体的に書いていないので、わかりませんが、時はユダヤ人の祭り(種なしパン、過ぎ越し、仮庵など)の時期ですから、船はおそらくエルサレムに巡礼するユダヤ人ばかりの貸し切り状態だったことが想像できます。そんな中で、ユダヤ人たちを扇動して、パウロを密かに暗殺し、海に放り込んで処分してしまおうという陰謀ではなかったかと言われています。そんな陰謀をパウロに告げる者がいて、パウロはこの難を逃れ、再びマケドニアに戻って、トロアスから船に乗りシリアに向かうこ

エペソでの大騒動(使徒の働き19:21〜40)

「エペソでの大騒動」 使徒の働き19:21~40 第三次伝道旅行の主な宣教地はエペソですが、このエペソでの約3年に渡る伝道が、終わろうとしています。エペソでは、はじめこそはユダヤ人の会堂から追い出されたこともありましたが、その後は比較的順調で、パウロは、ティラノの講堂を拠点にして毎日のように聖書を教えることができました。こうして多くのクリスチャンが生まれ、彼らも育って伝道できるようになったので、エペソだけでなく、広くアジア全土に福音が宣べ伝えられていきました。こうしてパウロは、そろそろエペソを離れることを考え、次の伝道計画へ向かう準備を始めました。それは聖霊によって与えられたビジョンでした。パウロはまず、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行こうと考えました。なぜかと言うと、困窮しているエルサレムに支援金を送りたかったからのです。だからでしょうか、22節にあるように、先にテモテとエラストをマケドニアに送りました。そしてマケドニアで献金を集めさせたようです。そして自分も後を追ってマケドニア行って、献金を受け取り、エルサレムにその献金を携えて上って行くという計画だったようです。そしてパウロにはすでに次の伝道旅行の計画も立て始めました。それはエルサレムを出発してローマに行くというものでした。当時地中海一帯を支配していたローマに福音を携えて行くということは、パウロにとって「地の果て」の宣教だったのかもしれません。そしてそこがおそらく最後の宣教地になるのではないか…、そんな予感もあったかもしれません。 そんな今後の計画を思い描き始めたころ、エペソ伝道最後の試練とも言える出来事が起こります。23節「そのころ、この道のことで、大変な騒ぎが起こった」とあります。この騒動が起こったいきさつを説明する前に、この個所で何度も出て来る「アルテミス」「アルテミス神殿」について、少し補足説明をすることにしましょう。 「アルテミス」というのはギリシャ神話のゼウス神の双子の娘のうちの一人で、もともとは狩猟の女神、出産と肥沃の守護者であり、純潔と処女性の象徴として崇拝されてきた女神ですが、それが古く小アジアで崇拝されてきた土着の母神と混ざって、豊穣の女神としてアジア全土に広まっていったようです。この使徒19章の時代には、世界30か所以上で礼拝が行われていたというのですから、非常に

ささげる恵み(第二コリント8:1〜5)

聖書箇所:Ⅱコリント 8:1~5 説教題:「ささげる恵み」 主題:私たちは献げることで恵みを受け、クリスチャンとして成長していく 説教者:那須 孔明 実習生   2Cor. 8:1   さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがた に知らせようと思います。 2Cor. 8:2   彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあ                  ふれ出て、惜しみなく施す富となりました。 2Cor. 8:3   私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、 2Cor. 8:4   聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。 2Cor. 8:5   そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、                 私たちにも委ねてくれました。   始めに    新船橋教会の皆さま、おはようございます。今日このようにして皆さまと共にみことばを味わう機会が与えられたことを感謝します。先週の週報にあった説教題を変更しました。説教題は「ささげる恵み」です。  今日のみことばは献金について扱っています。  「お金の話」と聞くと、身構える方もおられると思います。先々週の証でも話しましたが、私も教会に行き始めた頃、お金を搾り取られないかということが一番の心配事でした。  しかし、聖書は、お金を取り扱うことを信仰の事柄として扱っています。ですから、この話題を避けて通ることはできません。  私たちの信仰は献金によって試されます。献金の時間に財布に小銭が無くて、 1000 円を献金するか悩む。これは私の実体験ですが、似たような思いをされた方もおられるのではないかと思います。  今日の聖書箇所を通して、共に献金について、献げることについて、神さまの語りかけを聞いていきましょう。     1. マケドニアの諸教会に与えられた恵み    コリント人への手紙の宛先であるコリント教会は、非常に問題の多い教会でした。パウロは、1コリント人への手紙でコリント教会を厳しい言葉で戒めました。そして、今、コリント教会は、問題

主イエスの名によって(使徒の働き19:8〜20)

「主イエスの名によって」 使徒の働き19:8~20 みなさん覚えておられるでしょうか。第二伝道旅行の終わりにエペソに寄ったパウロは、船の碇泊中に一度だけ、ユダヤ人の会堂で説教をする機会が与えられました。その時のパウロの説教が興味深かったせいか、人々はもっと長くエペソに留まって話を聞かせてほしいと頼んだのですが、パウロは、「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と言って、別れを告げ、エペソから船出したのでした。 そして今回、パウロは今度こそ腰を据えて伝道しようと、再びエペソを訪れました。そして毎週安息日ごとに会堂で「神の国」について語ったのです。ところが、はじめのころこそ喜んでパウロの話しを聞いていた人々も、これはちょっと伝統的なユダヤ教とは違うぞと気づき始め、ある人たちは、会衆の前でパウロの語るキリストの福音を悪く言い始めました。そこでパウロはとうとう会堂での宣教を打ち切ることにしたのです。たった3ヶ月でしたが、それでも今までに比べれば長い方なのでした。 この後、彼らが集まるようになったのはティラノと呼ばれる講堂でした。ティラノというのは人の名前ですが、この人が講堂の家主なのか、この講堂で講義をする先生の名前かなのかは不明です。ちなみに「講堂」という言葉は「スコレー」と言って「スクール」の語源になっている言葉です。ある資料によると、講堂は朝比較的早い時間にオープンし、11時には一旦終了。お昼休みに入り、休みは夕方4時まで続いたそうです。まあ、学問自体、金持ちの道楽みたいな時代ですから、そんなものなんでしょう。こうしてパウロは、朝早くから11時まで働いて、11時から夕方4時まで毎日講堂でバイブルスタディ―をし、夕方それが終わると仕事にもどるという、そんな生活をしていたようです。こうしてティラノの講堂では毎日聖書を教えられるので、伝道はどんどん進みました。そしてそんな宣教活動を2年も続けているうちに、アジアに住む人々が皆、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞くことができました。その人が信じるかどうかは聖霊のなせる業です。でも聞かせることは私たちにゆだねられています。私たち新船橋キリスト教会も、あらゆる機会を用いて地域の人々に福音を聞かせていきたいものです。 さて、このような福音のパンデミックは、ことばの伝道によるものだけではなかったようです

わたし(キリスト)を覚えて(Ⅰコリント11:23-26)

「わたし(キリスト)を覚えて」(第一コリント 11:23-26) 齋藤五十三師  本日の聖書箇所は、聖餐式においてよく読まれる所です。コロナ禍で、しばし休んでいますので、せめてその意味だけでも覚えたい。そして、皆さんと聖餐を再開する日を待ち望みたいと願い、「わたしを覚えて」と題して御言葉から語ります。今朝は特に三つのことを覚えたいと思います。  1.      主から受けた   23 節(読む):  「私は主から受けた」と、手紙を記した使徒パウロは言います。すなわち、聖餐式の起源は、主イエスにあるのだと。しかも主が聖餐を行うようお命じになったのは、「渡される夜」でした。つまり、裏切りに遭い、弟子たちも逃げて、主が十字架刑のために引き渡された。聖餐の起こりは、あの夜にまで遡るものなのだ、というのです。  あの夜、主が渡される前には、最後の晩餐があったのでした。その席で主イエスはしもべのように腰を屈めて弟子たちの足を洗った。そして、その後の食事の席で主は、弟子たちの一人が裏切るのだと告げていく。それを聞いて驚く弟子たちでしたが、その後に主イエスはパンを裂き、また杯を取って、ご自分がこの後、体を裂き、血を流されること。それを覚えて、聖餐を行うようにと、弟子たちに命じてくださったのでした。   しかし、パウロは不思議なことを言うな、と、私はこの箇所を読んで思ったのです。パウロは言います。「私は主から受けた」。これは不思議ではありませんか。だって、あの最後の晩餐の席に、パウロはいなかったのです。いなかったどころか、まだキリストを信じてさえもいなかった。それなのに、聖書の原文は「私」に格別の強調を置いている。「私」パウロは、聖餐の教えを主から直接受けた。ここには、そういう明確な思いが込められています。 そのため、思わず尋ねたくなるのです。 「パウロ先生、あなたはいったい、どこで主イエスから聖餐の教えを受けたのですか」と。「あなたはいったいどこで主からこれを聞いたのですか」。  聖書が明確に記す、パウロと主イエスの直接の出逢いは、使徒の働き9章。そう、あのパウロの回心の場面だけです。あの時主は(当時はサウロでしたが)パウロに向かい、こう言ったのでした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。あの場面で主は、聖餐については何も語っていない。 それ