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1月, 2023の投稿を表示しています

福音に立つ教会②(第一コリント15:6〜11)

「福音に立つ教会」 Ⅰコリント人への手紙 15:6~11 「福音に立つ教会①」で、私たちは「福音」についてもう一度聖書から教えられました。パウロは最も大切なこととして「福音」を明示しました。それは3~5節にあります。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」こうして私たちは、この「福音」を信じて救われました。そしてキリストの教会は、この「福音」を信じた者の共同体です。しかし私たちが陥りやすい罠として、「福音」は信仰に入る時にだけ必要なもので、その後の信仰生活には関係がないものだいう考え方があります。しかし「福音」は、私たちが罪赦され、永遠のいのちを得るための「入り口」というだけではなく、実は私たちの信仰生活の中で生きて働く、「救いに至る道」なのです。   さて、今日の聖書箇所に入ります。パウロは6、7節で、イエスさまのよみがえりが確かな事実であることを続けて証明します。イエスさまはペテロ(ケファ)をはじめとする弟子たちに現れただけではなく、その後500人以上の兄弟たちに同時に現れました。恐らくイエスさまが昇天するときに、オリーブ山のふもとにそれだけの人数が集まっていたということでしょう。また、ここに女性の弟子の数は入っていませんので、女性も入れると倍以上の人がそこにいたことになるでしょう。そして、その中には、すでに眠った人も何人かいます、とあります。この「眠っている」という表現に、すでにこの時代の教会が復活信仰を持っていたことがわかります。死は終わりではない。人は死んだ後、もう一度目覚め、神の裁きの座につく、そしてイエスさまによって罪贖われた者は、御国で永遠に生きると信じていたのです。またパウロは、「すでに死んだ人もいますが、大多数は、今なお生き残っている」と言い、イエス・キリストのよみがえりが歴史上の事実であることを確かなことして証明しています。 また、「その後、キリストはヤコブに現れ」とありますが、このヤコブはイエスさまの兄弟のヤコブだと言われています。彼はイエスさまが地上に生きておられた時には、イエス

世界の基が据えられる前から(エペソ1:3〜6)

「世界の基が据えられる前から」(エペソ1:3~6) 齋藤 五十三 師 はじめに3節(読む)  エペソ人への手紙の本文は、この3節から始まります。冒頭の1~2節は挨拶ですから、手紙は、3節が始まりなのです。 この本文の始まり方、少し型破りではありませんか。 何が型破りかと言えば、パウロはいきなり賛美で始めているのです。しかも、相当にテンションが高い。 例えるならまるで、日曜朝、「おはようございます」と皆さんに挨拶するのではなく、皆さんの顔を見るなり、すぐにハレルヤコーラスを歌いかけていくような、そんな突き抜けた喜びのテンションです。皆さんも驚くでしょう。 朝、私に会うなり、いきなり賛美を歌いかけられたら。  パウロは感動しているのです。 しかもその感動が、一気に溢れる賛美の言葉となって途切れることなく続いていきます。 今日の箇所、特に4節以下を原文で読むと、4節から 14 節が切れ目のない一つの文章で繋がっていきます。 そうです。こみ上げてくる感動を、彼は切れ目のない賛美の言葉として一気に語り出すのです。   1.      霊的祝福 「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように!」 このこみ上げるパウロの感動は、いったいどこから来ているのでしょう。 この手紙が、パウロの牢獄に繋がれている時に書かれた手紙です。それを思うと、私たちはいよいよ不思議に感じる。 どこからこの賛美、喜びが溢れてくるのか。 どうしてだろう。 それは驚くべき祝福のゆえでした。 「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」 すべての霊的祝福をもって、神が私たちを祝福している! この祝福が、パウロの口を開いて、賛美を歌わせていったのでした。  ここで言われる、祝福は、単にエペソの教会だけに注がれている祝福ではありません。その内容の広がりを読むと分かりますが、ここで言われる霊的祝福とは、私たち信仰者のすべてをその対象としているのです。  そう考えるとどうですか。神はすべての霊的祝福でこの教会を、そして皆さん一人一人を祝福している。私たちにはそういう自覚があるでしょうか。私たちは天上にあるすべての霊的祝福で、特別に祝福されているというのです。  ここでいう天上の「霊的祝福」とは、その言葉の意味を調べ

福音に立つ教会(第一コリント15:1〜5)

「福音に立つ教会」 Ⅰコリント15:1~5 「福音」は、英語では「ゴスペル」あるいは「グッドニュース」という言い方もします。そしてギリシャ語では「ユーアンゲリオン」と言いまして、もともとは「良い知らせに対する報い」や「良い知らせを伝えた人への報酬」という意味なのですが、「良い知らせ」自体を指すこともあります。当時は、戦いの「勝利の知らせ」のことでしたが、後に「喜びをもたらす知らせ」全般を意味するようになりました。また、新約聖書の「福音」は、神がイエス・キリストによって、イスラエルへのご自身の約束を成就された、すべての人に救いの道が開かれたという良い知らせのことです。このように福音は、すばらしくよい、救いの知らせなのですが、「知らせ」ということばのせいでしょうか、私たちはこの「福音」を誤解しているところがあると思うのです。信仰を持つ、ほんの入り口で福音が語られ、知らされて、私たちはそれに応答して救われた、それで福音の役割りは終わったのだと思ってはいないでしょうか。つまり福音は、私たちがどうやったら救われるのか、どうしたら永遠のいのちを得られるのか示すためにあるもので、実際救われ、永遠のいのちを得てしまったら、もうその役割は終わってしまったかのように思われているのです。 また日本においては、神学上の立場、教派を表すものとして「福音」と言う言葉が用いられます。例えば、リベラル派に対して福音派、聖霊派に対して福音派と言うように、他の神学的立場と区別するために「福音」という言葉を使っているのです。ところがそのような福音理解は、とても貧しく、狭いと言わざるを得ません。福音は、もっと豊かで、広いのです。救われる時の入り口だけではなくて、また他の神学的立場、教派と区別するために使われるだけではなくて、福音は、クリスチャンの全生涯に影響を与え、私たちを変え、成長させるという重要な役割を果たしているのです。まさに福音は私たちの全生活、また私たちを取り巻く世界を見るレンズであり、私たちクリスチャンのアイデンティティそのものであり、私たちの生き方、生活に大きな影響を与え、変革をもたらすものなのです。 さて、Ⅰコリントの手紙はパウロが書いた手紙です。パウロはコリントで1年半伝道し、多くのコリント人が救われて、教会が立ち上がりました。ところがパウロがコリントを去った後、この教会でいくつ

ヘロデの勘違い(マタイの福音書2:13〜18)

説教題: ヘロデ王の勘違い 本文: マタイの福音書2章 13 節― 18 節 Matt. 2:13  彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」 Matt. 2:14  そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、 Matt. 2:15  ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。 Matt. 2:16  ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 Matt. 2:17  そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。 Matt. 2:18          「ラマで声が聞こえる。                             むせび泣きと嘆きが。                             ラケルが泣いている。その子らのゆえに。                             慰めを拒んでいる。                             子らがもういないからだ。」 本日は、キリスト教会のカレンダーでは、「公現の主日」と呼ばれる日曜日です。この主の日は、東方から来た異邦人の博士たちがイエス・キリストを訪ねて礼拝したことを記念する日です。そのため 12 月のクリスマスに対して、「異邦人のクリスマス」と呼ばれることもあります。ロシア正教会の場合は 1 月 7 日の昨日がクリスマスである様です。この朝は、そんなカレンダーを意識しながら、東方の博士たちがイエス・キリストを礼拝した後に何が起こったのかを見ていきたいと思います。 ところで皆さんはクリスマスを迎える前の 4 週間のアドベントの期間、どのような思いをし、どのように過ごされましたか?アドベントを過ごしながら、4本の蝋燭に順番に火をともして、それぞれ意味ある時間を過ごされたでしょうか。皆さんの過ごし方と

2023年1月1日 新年主日礼拝

先週のイブ礼拝とクリスマス礼拝を終えた月曜日に「ラーゲリより愛をこめて」という映画を観てきました。第二次世界大戦終了後、旧ソ連が日本人将兵約60万人をラーゲリ(強制収容所)に抑留し、劣悪な扱いの中で6万人が死んだという悲惨な歴史的事件に基づいている映画です。シベリアのラーゲリのあまりにも残酷な日々に誰もが絶望する状況下で、ただ一人、生きることへの希望を捨てなかったのが、主人公の山本幡男(やまもとはたお)でした。ラーゲリの劣悪な環境によって栄養失調で死に逝く者や自ら命を絶つ者、さらには日本人抑留者同士の争いも絶えない中、山本は変わらずに、生きることへの希望を訴え続け、仲間たちを励まし続けました。この映画のキーワードは「希望」です。私たちは希望がなければ生きていけませんし、日本は自殺者の多い国です。特に15歳から40歳までの死亡原因のトップは自殺なのです。いろんな原因があると思いますが、やはり「希望がない」そこに集約できるような気がしませんか。   この手紙を書いたパウロはコリント教会で起こっている問題への対処にてこずっていたようです。先に書いた手紙(Ⅰコリント書)も功を奏さず、問題はこじれにこじれてしまいました。1年半かけて育てた教会ですから、パウロの思い入れもひとしおです。自分の何が問題だったのか、互いの間に築かれた信頼関係はどこに行ったのか。宣教師としての無力感にさいなまれるばかりでした。実際コリントの教会には、「偽教師」が入り込み、雄弁な彼らは、パウロの使徒性について人々に疑問を持たせようとしたのです。しかしパウロは、この手紙(Ⅱコリント書)の中で自分がコリントで真実をもって福音を語ってきたことを語り、この新しい契約の福音が、どんなに栄光に満ちたものかを生き生きと描いています。そして彼は、その栄光に満ちた福音を自分という「土の器」に入れているのだと告白します。そして自分の弱さ、人としての限界を痛感しつつ、その弱くてもろい私たちの内に、神は福音という宝を入れてくださったのだと言っているのです。   そして今日のテキストの16節でパウロは、「ですから、私たちは落胆しません」と言っています。自分は弱く、もろく、見栄えもしない土の器かもしれない。けれどもその器に主が託してくださった福音は、こんなに素晴らしく、また永遠に続くものだから、私は落胆しないのだと