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6月, 2024の投稿を表示しています

主とともに歩む(創世記5:1~32)

「主とともに歩む」 創世記 5 章1~32節  日本人の平均寿命は、2023年に発表されたデータで、男性は 81.05 年、女性は 87.09 年となり、実は 202 0年を頂点に少しずつ下がってきています。長寿が幸せな人生を象徴しているとすれば、世界で一番幸せなのは日本人かもしれません。ところが、今日開いた聖書箇所には、日本の長寿とは比べものにならない、桁外れに長い寿命のみなさんが並んでいます。アダムは930年。セツが912年。続いて、905年、910年、895年、962年…。その当時の人々にとっては、普通の長さだったようようですが、29節で、777年生きたレメクが自分の子に「ノア(慰めの子)」と名づけてこう言っています。 「この子は、【主】がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」 この言葉には、レメクの苦労、悲嘆のようなものが感じられます。長寿は確かに神さまの祝福ですが、人の罪のゆえに大地は呪われ、その影響で労働には苦しみがともなうようになりました。しかも、人は最後には塵に返るというむなしさを抱えて生きなければなりません。その中で800年、900年と生きることには、私たちには想像できないような耐え難い苦しみがあるのではないでしょうか。詩篇90篇10節で、詩人はこんなことを書いています。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」彼らは慰めが必要でした。だから「ノア」、「慰めの子」という名前を付けたのでしょう。 けれども、この人類の長寿は、ずっと続いたわけではありません。創世記6章3節を見ると、神さまは、「人の齢を百二十年にしよう」と決意しています。そしてノアの大洪水以降、人の寿命はますます短くなりました。その理由としては、いろいろ考えられるでしょう。大地ののろいのせいで、土地が痩せ、ビタミンとミネラルたっぷりの野菜がとれなくなってしまったとか、ノアの洪水以降大気中の紫外線が強くなって老化を早めたとか、ノアの洪水以降肉食が始まったせいで、体が酸化したとか、また、利益を追求するようになった人間が過労で死を早めたなんてこともあげられるかもしれません。とにかく、どれだけ長く生きたとしても、人間は必ず最後は死ぬのだということを、この系図は表...

主の御名を呼ぶ人々(創世記4:17~26)

「主の名を呼ぶ人々」 創世記4:17~26 人類最初の殺人者カインには、どんな人生が待っているかと思いきや、結構普通に祝福された生活をしているので、私たちは拍子抜けしてしまいます。カインは結婚し、子どもが生まれ、その子どもの名にちなんで、自分の建てた町にエノクと名づけました。すべて順調です。神さまは、もっとわかりやすくカインを罰してくれればいいのにと、私たちは思います。 ここでヨナの話しを思い出しました。 紀元前八世紀頃でしょうか。イスラエルの国の預言者ヨナに神さまが命じます。「大きな都ニネベに行って、彼らの悪について語りなさい」。しかしヨナはこの派遣を嫌がります。悪名高いニネベの事は聞いています。彼らに忠告するなんてまっぴらごめんだということでしょう。そして、ニネベとは反対方向の船に乗り込みます。ところが、主はその船に大嵐を与えて、難破しそうになります。ヨナはこの暴風は自分のせいだから、自分を海に投げ込むように言って、水夫たちに海に放り込ませます。そこに大きな魚が出て来てヨナを呑み込み、嵐は静まりました。そして、ヨナは魚の腹で祈ると、3日後陸地に吐き出され、もう一度ニネベに派遣されます。今度はヨナも逃げずに従いますが、ヨナがニネベで、「あと四十日するとニネベは滅びる」と言って回ると、ニネベの人々も王もその言葉を信じ、断食をして荒布をまとって悔い改めたのです。そして案の定、神さまは、それを見て罰を思い直すのでした。それを見たヨナは非常に不愉快になって、主に抗議します。「ああ、主よ。こうなると分かっていたから、私はタルシシュに逃げたのです」と怒りをぶちまけたのです。 ひょっとしたら私たちも、弟殺しのカインが、相当の罰を受けることを期待していたのではないでしょうか。そうじゃないと納得できないと心のどこかで思っていたかもしれません。けれども、神さまは罪を犯したカインのことも愛していたのです。そして彼のいのちを惜しみ、そのいのちを守ると保証し、一つのしるしを与えたのです。そして彼の子孫も祝福されたのでした。私たちの神さまは、因果応報の神さまではありません。どこまでもあわれみ深い神なのです。 カインは結婚します。あれ?人類はアダムとエバとカインと殺されたアベルの4人じゃなかったの?どこから妻が出てきたの?そう思っても不思議ではないのですが、おそらく、聖...

信仰の原点に返る(創世記13:1~4)山岡浩之実習生

「信仰の原点に 返る 」 創世記 13 章 1 節~ 4 節   お祈り   恵み深い天の父なる神様。今週一週間それぞれの歩みを守りこの礼拝へと招いて下さったことを感謝いたします。この礼拝を神様に目を向けやわらかな心で神のみことばを共に味わう時間としてください。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。   導入   皆さんの信仰の原点、信仰のはじまりの場所とは何処でしょうか?本日の聖書箇所にはアブラムという人の信仰の原点への帰り道が記されています。このアブラムは聖書の中には出てこない言葉ですが、「信仰の父」と呼ばれている人です。聖書の神を信じる私たちにとっての模範と言える人です。なぜなら、アブラムは信仰によって神と共に生きたからです。 しかし、アブラムは聖書の中で何度も神の御前で失敗を繰り返した人でもあります。例えば、本日の聖書箇所の前にある 12 章には、神ではなく飢饉を恐れて下って行ったエジプトにおいて、自分の妻であるサラを妹と偽り、危うく 12 章で交わされた神との大事な契約を破りそうになるという、神への裏切り行為とも言える出来事が記されています。 そして、本日の聖書箇所である 13 章 1 節~ 4 節には、この大失敗の後の、アブラムの信仰の原点への帰り道が記されています。短いですがとても大事な箇所です。本日はこの箇所から私たち自身の信仰の原点とは何処なのか?そのことを皆さんと共に考えていきたいと思います。それでは 1 節から共に読み進めてまいりましょう。   1 節   1 節「そこで、アブラムはエジプトを出て、ネゲブに上った。妻と所有するすべてのものと、ロトも一緒であった。」 1 節で注目したいのはこの「ネゲブに上った」という言葉です。また、 12 章 10 節を見てみて下さい。 12 章 10 節でエジプトに行くときには「下った」とあります。なぜ、ネゲブへは上ったと表現され、エジプトへは下ったと表現されているのでしょうか?それは聖書では大事な土地に行くときには「上った」と表現し、その逆に大事な土地から出ていくときには「下った」と表現するからです。ですからこの「ネゲブに上った」というのはとても短い簡単な言葉で、...

カインにしるしを(創世記4:8~16)

「カインにしるしを」 創世記4:8~16   天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。いにしえの詩人は、あなたのみことばは蜜よりも甘いと告白していました。私たちも今、みことばを味わおうとしています。どうぞ、存分にみことばを味わい、心満たされますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。   神さまは、カインに忠告を与えました。「罪が戸口で待ち伏せている」「あなたはそれを治めなければならない」と。ところが、カインは、自分の怒りと憎しみを治めることができませんでした。それどころか、自分のささげものに目を留めなかった神は不当だと怒りを覚えました。そして、さらには自己憐憫に陥ったのでしょう。だれも自分のことをわかってくれない。神に不当な扱いをされた自分はかわいそうだ。そしてその自己憐憫の中で怒りが膨張し、神がえこひいきをして正しいさばきをすることができないなら、俺がさばいてやろうと、その怒りの矛先が、アベルに向かったのです。 こうして、彼は弟アベルを誘い出しました。どう言って誘い出したのでしょうか。「アベル、野に行っていっしょに狩りをしないか?」「俺の畑の収穫を手伝ってくれないか?」「野で珍しい花を見つけたよ。見に行かないか?」こうしてアベルを人気(ひとけ)のいない野に連れ出し、隠し持っていた凶器を使ったのか、そこらにあった石で頭を殴ったのか、暴力の手をあげたのです。アベルは血を流して、地に倒れ、息絶えました。人類最初の死でした。それは老衰や病死ではありません。人殺しだったのです。カインも驚いたかもしれません。何しろ初めて見る人の死です。怒りと憎しみを行動に移すと、人はこんなにもあっけなく死ぬのだと思ったことでしょう。 ヤコブの手紙1章15節には、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」 とあります。またイエスさまも山上の説教の中で、十戒の「殺してはならない」を引用し、兄弟に怒るなら、この戒めをすでに犯しているのだと言いましたし、 Ⅰヨハネの手紙3章15節には「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」 とはっきりと言っています。それにしても、人類の一代目アダムから数えてまだ二代目です。二代目で人の命を奪うという、おそらく一番大きな罪の行為が行われたことに、「原罪」というものの恐ろしさを見た気がします...

カインとアベル(創世記4:1~7)

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。4:2 彼女はまた、その弟アベルを生んだ。 エデンの園から追放されたアダムとエバに子どもが生まれました。「知った」という表現は性的な関係を持ったことの婉曲的な表現です。前にも話しましたが、夫婦が性関係を持つことは、人間の堕落以前に神さまから人に与えられた祝福の一つでした。それが夫婦一対一の結婚の秩序の中で、愛と思いやりをもって営まれる時に、大きな祝福となります。そしてその愛の結実として子どもが与えられるのは、人間の堕落以降もなお残された、神さまの大きな祝福なのです。神さまはエバの罪の結果として「苦しんで子どもを産まなければならない」とおっしゃいましたが、ここには、エバの苦しみについては触れられていません。エバは堕落前には子どもを産んでいないので、比較はできないのですが、ひょっとしたら、覚悟していたより大丈夫だったということかもしれません。むしろ「私は、主によって一人の男子を得た!」と主への感謝と賛美、喜び、そして「得た!」という言葉からは、達成感や勝利のようなものさえ感じます。カインという名前は、エバの言葉、「わたしは主によって男子を得た(カーナー)」に由来し、「得た」「獲得した」「ゲットだぜ!」という意味です。子どもを無事に産んだときの達成感。喜び!誰かほめて!みたいな感覚は私にもわかる気がします。 それではアベルの名前にはどんな意味があるのでしょうか。アベルの名前の意味は「息」「蒸気」という語源を持つ「むなしい」とか「はかない」という意味です。ひょっとしたら小さく生まれ、体の弱い赤ちゃんだったのでしょうか。あるいは、若くして亡くなってしまうことを暗示しての名前だったのかもしれません。こうして二人は、それぞれ大きくなり、アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す農家となりました。どちらも良い職業です。職業に優劣はありません。   4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。  4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。 4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。...