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12月, 2024の投稿を表示しています

慰めを待ち望む(ルカの福音書2章21~35節)

「慰めを待ち望む」 ルカの福音書 2 :21~35 21~24節には、律法の習慣(レビ記12:1~8)に従うイエスさまの姿が描かれています。もちろんイエスさまは生後間もない赤ちゃんですから、律法の習慣に従ったのはマリアとヨセフなのですが、実は、イエスさまは律法を制定される側のお方なだということに思いが至るときに、ご自分の制定された律法に自ら従われる姿に、人として歩み始めたイエスさまの覚悟と本気を見る思いです。 まずは、八日目の割礼です。ユダヤ人は生後8日目の男子の赤ちゃんに割礼を施すことが律法で定められていました。割礼は、天地万物を創られた唯一の神を信じる民、「神の民」としての特別な印でした。神さまと特別の約束を交わした民としてのしるしです。そしてこの日に、み使いが両親に告げられた「イエス」という名前を幼子につけたのです。 次に40日の清めの期間が終わったあとの宮詣です。日本でいうお宮参りといったところでしょうか。40日というのも、レビ記にある規定で、女性が男子のあかちゃんを生んだ場合、7日間は、宗教的に汚れているとされて、その後33日間の清めの期間があり、合わせての40日が、その期間となります。(ちなみに女の子の場合は、2週間の汚れた期間を経て、66日間清めの期間を過ごします)この間、母親は隔離されるわけですが、産後のママにとってはありがたい時期です。今みたいに洗濯機や掃除機、炊飯器などがない時代、家事は女性にとって重労働でした。そこから解放されて、自分の体の回復と、新生児のお世話だけしていればいいこの時期は、産後のママにとって必要不可欠な時期だったのです。そして、その期間が明けて、マリアのからだも十分に回復して、 彼らはエルサレム神殿に向かったのでした。 Google マップで検索すると、ベツレヘムからエルサレムまで、距離にして8.9キロ、車で20分の距離です。もちろん当時は車はありませんので、徒歩だと2時間弱というところです。産後の身にとっては、ロバに乗って行ったとしても、決して近いとは言えない距離です。こうして、マリアとヨセフ、小さな赤ちゃんのイエスさまは、エルサレムの神殿に向かったのです。 さて、宮に着くと、律法の規定に基づいて、ささげものをします。ささげものの内容も決まっています。それは、生まれたのが男子であっても女子であっても同じで...

恐れることはありません(ルカの福音書2:8~20)

「恐れることはありません」 ルカの福音書2:8~20   2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。 その地方というのは、ベツレヘム周辺の荒野のことでしょう。荒野です。よく、青々とした草原で、羊飼いが優雅に羊たちを放牧しているような絵を見ますが、現実はそんなものではありません。この時彼らがいたところは、ベツレヘムからそれほども離れていなかったと思われます。この後現れるみ使いが「今日ダビデの町で」と告げ、羊飼いたちが「急いで行って」とあるので比較的ベツレヘムに近いところだったと思うのです。このベツレヘム近郊というのは、非常に乾燥しています。雨季は11月半ばから3月半ばまでの4か月ですが、一番雨が降る1月でさえ、平均6日ぐらい降るだけで、しかも平均1ミリメートルぐらいだそうです。しかもこの時期は雨季なのに湿度は低く、ほとんどゼロパーセントです。そのため、気温差は大きく、夜は底冷えするような寒さだったことでしょう。しかもこの辺り、風が強く、砂嵐のような風が年中吹いています。そう考えると、羊飼いたちの労働環境は過酷です。一面石がごつごつしている荒野で、時々、干からびた草原が広がっている。羊飼いたちは、そんな草原を求めて、あちこち移動して過ごしているのです。そして、一度放牧に出たら、簡単には帰れません。そこから長い野宿生活が始まるのです。そもそも帰るべき家を持っていたのか…。 「野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた」羊飼いの夜もまた過酷です。イエスさまのたとえで100匹の羊と出てきますので、100匹と想定しても、それだけの群れが、一斉に静かに寝てくれるとは限りません。寝ぼけて、ふらふら群れを離れようとする羊もいたでしょうし、オオカミなどの野獣からも羊を守らなければなりません。これは聞いた話ですが、オオカミは、この羊の群れを狙って、遠吠えを繰り返すそうです。すると、羊たちはおびえて寝られません。そして、そのうちパニックを起こすそうです。そしてやみくもに駆け出してしまう。けれども、そんなオオカミの遠吠えの中、羊飼いが「大丈夫だよ、ここにいるよ」と声をかけると、羊たちは落ち着くそうです。ですから、夜はおちおち寝ていられないのです。テントの中で休むなんてこともありません。火を囲んで、文字通り野宿なのです。 羊は...

飼葉桶に生まれたキリスト(ルカの福音書2:1~7)

「飼葉桶に生まれたキリスト」(ルカ 2:1-7 ) 齋藤五十三 1.     ローマの平和の中で 6-7 節(読む)  今お読みした二節は待ちに待った救い主がちょうど生まれた場面なのに、拍子抜けするほどにあっさりしています。取り分け、この誕生前後のストーリーが華やかでしたから、なおのこと奇妙な感じなのです。このすぐ前のルカ1章には、何が描かれていましたか。そこには有名な絵画にもなった処女マリアへの受胎告知がありました。「マリア。あなたは神から恵みを受けたのです」と語る御使いの姿は、実に印象深いものでした。その他にも1章にはマリアの歌があり、ザカリアの預言ありと絵になる光景の連続なのですが、いざ、イエスさまの誕生となったら、実にあっさりとわずか二節。まるで華やかな前奏を聞いた後、いざメロディーに入ると、わずか二章節で終わってしまうかのような肩透かしです。  でも冷静に考えれば、救い主誕生に華やかな期待を抱いていたのは、聖書を読んでいる私たちだけなのかもしれません。世界はローマを中心に動いている時代です。ひとたび皇帝の勅令が出ると、すぐにローマ世界の民が一気に大移動していく。そんな騒がしさの中、救い主の誕生はすっかりかすんでしまうのです。そう、イエスさまの誕生は歴史の片隅でひっそりと起こった、まことに小さな出来事であったのでした。  しかも、生まれた場所が場所です。ギリシア語の原文を見れば、ここで言う宿屋は最低限の安宿で、そこにすら場所がなく、我らが救い主は何と飼葉桶に生まれていく。謙遜と言えば聞こえはいいですが、これは何とも寂しい、惨めな誕生でもあったのです。  それに比べて、圧倒されるのが皇帝アウグストゥスの力です。この時代はローマの平和(ラテン語ではパクスロマーナ)と呼ばれるローマの武力による平和が約 200 年続いた時代でした。平和でしたから人々の大移動が可能で、ひとたび皇帝が声を上げれば、多くの民が一斉に動いていく。パクスロマーナは、この皇帝の絶大な権力に支えられていたのです。  住民登録による人口調査は納税額を調べ、国家予算の算盤をはじくためであったと言います。いつの時代も権力者が考えることは同じです。日本では大昔、太閤検地と言って、豊臣秀吉が大勢の人々を動かし、いくら租税を取れるかと算盤をはじいた...

上から来られる方(ヨハネの福音書3:22~36)

「上から来られる方」 ヨハネの福音書3:22~36  今日は、アドベントの第二週です。「アドベント」は「到来」という意味だと、先週もおはなししました。イエス・キリスト、神の御子が人となって、地上に到来してくださる。その目的は、私たちの救いのためだとう。このありえないほどの、破格の、すばらしい知らせの意味を、イエスさまがおられた当時、本当の意味で理解していた人は誰もいませんでした。そう、バプテスマのヨハネ以外は! ということで、今週も私たちは、このバプテスマのヨハネを通して、キリスト到来の意味を学びたいと思います。 3章22-23節を見ると、面白いことがわかります。なんと、ヨハネとイエスさまが同時期に宣教活動をしていたということです。ヨハネが投獄され、処刑される少し前の、彼にとっては最後の宣教期間でした。(24節)イエスさまは、エルサレムでニコデモと話しをし、あの有名な「聖書の中の聖書」と言われるみことば「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに…」と話してから、ユダヤ地方に行かれました。そして、そこで人々にバプテスマを授けておられたというのです。けれども、4章2節を見ますと、実際に洗礼を授けておられたのは、イエスさまではなくて、イエスの弟子たちでした。そして、ヨハネが1章33節で、イエスさまのことを「聖霊によってバプテスマを授ける者」と呼びましたが、聖霊がイエスさまを信じるすべての人にくだるのは、イエスさまが復活され、昇天された後のことなので、ここで、イエスさまの弟子たちが授けていたバプテスマは、ヨハネと同じ、悔い改めのバプテスマだったことがわかります。 さて、ヨハネとイエスさまの弟子たちが、同時期に、少し離れたところでバプテスマを授けていたということですが、一つ問題が起こりました。それは「ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした」(25節)というのです。ユダヤ人というのは、パリサイ人に代表される当時の宗教家だと思うのですが、彼らが、ヨハネのバプテスマとイエスのバプテスマの比較論争をしたということでしょう。そして、おそらくこの論争で、ヨハネの弟子たちはやり込められ、何か悔しい思いをしたのかもしれません。そこで彼らは、ヨハネのところに来て言うのです。26節「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの...

荒野で叫ぶ者の声(ヨハネの福音書1:19~28)

「荒野で叫ぶ者の声」 ヨハネの福音書1:19~28  アドベントに入りました。アドベントというのは、日本語では「待降節」と言い、クリスマス主日までのイエス・キリストの誕生を待ち望む期間を意味します。アドベントの語源はラテン語の「 Adventus (到来)」で、英語の「 Adventure( 冒険 ) 」の由来になります。  神が人となり、地上に生まれてくださる。これほどのアドベンチャーがあるでしょうか。そいう言う意味で、私たちは、このアドベントの期間をわくわく、どきどきする思いで過ごしたいと思うのです。 今日の登場人物は、イエスさまのご降誕を、わくわく、どきどきしながら待ち、イエスさまの通られる道を整えた最後のメシア預言者ヨハネです。ご存じのようにヨハネは、祭司ザカリヤ、また、イエスさまの母マリアの親戚、エリサベツの子どもとして生まれました。彼は生まれる前から、イスラエルが待ち望んでいたメシア(救世主)が、間もなく来られるということ、また彼はそのための道備えをするという使命が与えられていることを知らされて育ちました。親はそのように、ヨハネに特別の教育をしましたし、本人にもその自覚がありました。 子どもが生まれてくるときに、その子のアイデンティティの確立を助けてあげることは、とても大切なことです。「あなたは、何者なのか。何のために生まれてきたのか、生きる目的は何なのかを、親は子どもに教える必要があるのです。私も時々、「性教育」や「子育て」というテーマで講演をすることがありますが、このことをとても大切しています。子どもの人格教育は、子どもがおなかにいるときから始まっています。「あなたは、神さまから愛されているよ」「お父さん、お母さんもあなたを愛しているよ」「あなたの誕生を待っているよ」「あなたは、私たちの宝物だよ」「神さまの宝物だよ」「世界はあなたの誕生を待っているよ」「あなたは神さまの子どもだよ」。現代、多くの人は自分が何者かわからないで、心病んでいます。アイデンティティクライシスです。「あなたは神さまの子ども」「あなたは天地万物を創られた王なる神さまの王子、王女様」「あなたは高価で貴い」「あなたは愛されている」私たちは子どもたちをそうやって育てたいものです。 さて、前置きが長くなりました。ヨハネは、明確なアイデンティティを持っていました。です...