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6月, 2025の投稿を表示しています

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

7つの教会への手紙(黙示録1:9~13)

「七つの教会への手紙」(黙示録 1:9-13 )招詞:イザヤ 46:3-4 はじめに 1-3 節  しばらく黙示録の七つの教会への手紙を読んでいきたいと願っています。黙示録と聞いて、難解ですので少しひるんでしまう方もおられるかもしれません。しかしご安心ください。 11 節に「見たことを巻物に記して、七つの教会」に「送りなさい」とあることから分かるように、私たちが目を留めるのは教会に宛てられた手紙です。しかも美しい手紙です。  とは言え、これらは普通の手紙とは異なります。特に書き方が不思議です。例えば最初に目を留めるエペソ教会への手紙、その直接の送り主が2章1節に登場しますが、とても不思議な送り主です。「右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる」。この書き出しはとても不思議です。こうした不思議さには理由があるのです。  黙示録が書かれたのは西暦 80 年代から 90 年代、ローマ皇帝はドミティアヌスという人で、教会への迫害が実に激しい時代でした。教会は危機の中にあったのです。しかも教会は、以前のような活気を失っていました。疲れていたのです。主イエスが再び帰ることを約束して天に昇ってから五十年が過ぎていました。あの頃の燃えるような情熱も今は下火になり、教会も信仰者たちも、迫害と忍耐の中で疲れていた。そんな教会の姿が、七つの教会への手紙には浮かび上がってきます。そんな教会を励ますために、七つの教会への手紙、そして黙示録全体が記されていくのです。しかもその中には時の権力者の裁きも告げられている。この手紙は危険な手紙なのです。権力者の目に留まれば、何が起こるか分からない。だから不思議な書き方だったのでした。分かる人だけが分かる書き方。迫害の中を耐えている信仰者が読むと分かるような、そんな暗号のような手紙です。  教会は疲れて停滞し、励ましを必要としていました。使徒ペテロも、パウロも、すでに殉教の死を遂げていた。時が流れて、今や激しい迫害の時代が訪れていたのでした。   1.     兄弟ヨハネ  十二使徒の中で唯一残っていたのはヨハネです。「良かった」と思うものの、ヨハネは齢九十を超えて、かつての気力も体力もありません。しかも迫害によって捕まった挙句、エーゲ海の島パトモスへと流...

アブラハムのとりなし(創世記18:16~33)

「アブラハムのとりなし」 創世記18:16~33   3人の旅人が、アブラハムの熱心な招きに応えて、アブラハムの家で休憩し、おもてなしを受けました。この3人の旅人のうち、二人はみ使いで、一人は神ご自身でした。彼らがアブラハムのところに来た目的は二つあったようです。一つは、アブラハムの妻サラによって、来年の今ごろ男の子が生まれるということを告げるため。そしてもう一つは、今日の聖書箇所にあるように、ソドムへのさばきの予告でした。 3人の旅人は、アブラハムのおもてなしを受けて、ゆっくり休んで、再び先に進もうとされました。アブラハムは、旅の人たちを見送るために、しばらく一緒に歩きます。なんだか古き良き時代の日本人みたいですね。お客さんを玄関の外までお送りして、見えなくなるまで、手を振ったり、お辞儀をしたりして見送る、そんなアブラハムの姿に同じアジアを感じました。こうして、しばらく一緒に歩き、ここからは下りというところまで来て、立ち止まり、目の前に広がる低地を望みました。かつて、ロトが選んだ肥沃な土地です。そしてそこにひときわ栄えている町がありました。ソドムです。そのソドムの町を見ながら、主は考えられました。 17 節。 「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが【主】の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、【主】がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」 主は、アブラハムの選びの目的について思いを巡らします。選びの理由ではありません。救いの理由は私たちの側にはありません。それは神の一方的な「恵み」なのです。けれども、目的に関しては明確です。それは、「私たちが祝福の基になるため」です。アブラハムと彼の子孫により、地のすべての国民が祝福を受けるために、神はアブラハムと私たちを選びました。ですから、私たちは、祝福の基となるべく、 「【主】の道を守り、正義と公正を行うようになる」 必要があります。主が私たちを選ばれたのは、祝福を私たちの中にとどめておくためではありません。自分の幸せ、自分の家族の幸せ、自分の国の祝福...

うめきとりなす聖霊(ローマ人への手紙8:26~27)

「うめきとりなす聖霊」 ローマ人への手紙 8 章26~27節 今日はペンテコステです。ペンテコステとは、ギリシャ語の「50」という意味で、イースターから50日目にイエスさまの弟子たちに聖霊が降り、そこから「教会」が生まれたことを記念する日です。キリスト教においては、「教会の誕生日」として、クリスマス、イースターと並んで、祝われます。使徒の働き2章にその日の出来事が書かれています。イエス・キリストの昇天後、弟子たちがエルサレムに集まって祈っていると、突然激しい風のような音が聞こえ、炎のようなものが弟子たちの頭に降ってきて、頭上に留まりました。すると、弟子たちは聖霊に満たされ、さまざまな外国語で語り始めたというのです。それまでは、聖霊が降るのは、イスラエルの預言者とか王とか、特別な人だけだったのに、この時から、イエスさまを信じるすべての人に聖霊が降り、一人ひとりの心に住んでくださるようになりました。 聖書の神さまはお一人なのですが、3つの位格( Person )があります。御父と御子(イエス・キリスト)と聖霊です。この3つの位格は、本質において同一で、力と栄光において同等のひとりの神です。特に、聖霊は誤解を受けやすく、何か幽霊やパワーのように思われたりしますが、聖霊も Person 、つまりご人格なので、父なる神さまやイエスさまと同じく、私たちは呼びかけたり、交わったりすることができます。そして、このお方は、私たちの外から働きかけてくださるだけでなく、イエスさまを信じた私たちの心の内に住まわれ、私たちの内側で働いてくださいます。そして信じる心を与え、慰めや励ましを与え、私たちが聖書を読んだり、説教を聴いたりするときに、みことばの理解を助けてくれます。ただ、このお方は、よく Shy (恥ずかしがりや)だと言われるのですが、表舞台に立つことを好みません。黒子のように、イエス・キリストにスポットが当たるように動き、イエスさまが栄光を受けることを喜ばれます。また、聖霊は目には見えませんが、風のように感じることができますし、風で木の葉が揺れるように、聖霊の働きの影響を私たちは見ることができます。時にはそよ風のように私たちを慰め、時には嵐のように私たちの心をえぐり、悔い改めへと導きます。また、病を癒したり、悪霊を追い出したり、超自然的な働きをするのも聖霊です。今日は、そ...

サラに男の子が!(創世記18:1~15)

「サラに男の子が!」 創世記18:1~15 アブラハム一族は、13章で甥のロトと別れた後、ヘブロンにあるマムレの木の下に天幕を張って、生活を営んでいました。きっと大きな木で、木陰も大きく、日照りや雨風もある程度しのぐことができたと思われます。それでも、昼間は暑かったのでしょう。アブラムは、風の抜ける天幕の入り口で、座って涼んでいました。ふと気配を感じて、目を上げると、 3 人の人がこちらに向かって歩いてくるではありませんか。「旅のお方だろうか。こんな暑い時間に、外を歩くなんてどうしたことだろう。うちで休んでいっていただこう!」こうしてアブラハムは、3人に声をかけます。それにしても丁寧なお出迎えで驚きます。2節後半から。  「アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。彼は言った。『主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。せっかく、しもべのところをお通りになるのですから。』」 まるで頼み込むようにして、客人を迎えます。こうして、サラに頼んで、3セア(約23リットル?)の小麦粉でパン菓子を作ってもらい、牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を自ら選び、召し使いに渡し、急いで料理させました。また、凝乳(ヨーグルト)、牛乳、パン菓子、子牛料理を運び、彼らの前に並べ、彼らが食事をしている間、そばに立って給仕をしたというのです。 まるでどこかの国の王族の接待をしているかような丁重ぶりです。私たちはこんなおもてなしを受けたことがあるでしょうか。私は、この接待のごちそうもさることながら、アブラハムの相手に気を遣わせまいとする配慮に満ちた振る舞いに敬服します。あなたがたを私がこうしてお迎えするのは、当たり前のことなのです。私はなすべきことをしているにすぎません、という態度です。 私はそんなアブラハムを見ながら、私たちがアメリカにいた頃に出会った、神学校の職員さんのことを思い出しました。イナ・デモアさんという女性です。私たちは、子どもを3人連れてアメリカに行きました。その時長女は小学二年生、長男は幼稚園の年長さんの年齢でし...