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居場所がなくても(ルカの福音書2:1~7)


「居場所がなくても」

ルカの福音書2:1~7

 

2章は、イエスさまがお生まれになったバックグラウンドから始まります。皇帝アウグストゥスの治世に住民登録をせよという勅令が出されます。アウグストゥス(本名オクタヴィアヌス)は、紀元前27年から紀元14年にローマ帝国を治めていた歴史上の人物です。アウグストゥスという称号の意味は、「尊厳なる者」という意味を持ちますが、読んで字のごとく、彼はローマの内戦を終結させ、初代皇帝として40年も治め、約200年もの平和を全ヨーロッパ、シリア、エジプト、地中海世界全域に実現させた歴史上最も偉大な指導者の一人と言えます。

このような時代背景を見るにつけ、神の子イエスさまは、この地上に生まれるのに最も適したときに生まれたことがわかります。神さまは、この時期を目指して、救いの準備をされてきたのです。この時代より前でもだめだった、この時代より後でもだめだったということです。この時代がベストだったのです。その理由をいくつかあげましょう。

まずは、先ほど言いましたように、この時代はそれまでになく、平和だったのです。ローマによる平和は「パクスロマーナ」と言いますが、このような平和な世界で、交通網が発達し、すべての道はローマに続くと言われるようになりました。交通網が整備されるということは、人々の移動が容易になったということです。また治安と行政制度が安定していたことも挙げられます。こうして、イエスさまの福音はやがて、短期間に広く世界に広がっていったのです。

二つ目は、共通語としてのギリシア語(コイネー・ギリシア語)が広く使われたので、新約聖書がこの言語を通して書かれ、また、旧約聖書もギリシア語に訳されて、異なった民族や文化にも直接聖書のメッセージが伝わったのです。

三つめは、メシア待望の高まりが最高潮になっていたということです。イスラエル民族は、長いバビロン捕囚を経て、今はローマ支配への苦しみを経験しました。そんな中でかつてないほどの救い主、メシア到来への期待が高まっていたのです。

聖書はこの時代を「時が満ちた」と表現しています。イエスさまの先駆者バプテスマのヨハネは、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と荒野で叫びました。まさに、この時代は時満ちた時代だったのです。

 

そして、イエスさまが生まれた場所についてですが、これまたBestの場所でした。マリアとヨセフはナザレの人でした。何もなければ、イエスさまはナザレで生まれていたでしょう。そうなると、メシアはベツレヘムで生まれるという旧約の預言は成就しなくなるのです。今日の招詞でも読みましたミカ書5章2節にはこうあります。「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」救い主はベツレヘムから出る、それは預言されていたことでした。そして、なぜかローマ皇帝アウグストゥスが、この時に、マリアが臨月になったときに、住民登録をせよという勅令を出したのです。ヨセフはダビデ王の子孫でした。すでに彼の家は落ちぶれ、彼は大工をして生計を立てていたようですが、系図から言えば、ダビデの家系です。自分の家系を大事にするユダヤ人ですから間違いはありません。それで、ヨセフは、身重の妻を連れて、ナザレからベツレヘムへの110~120㎞、3~4日の道のりを旅してベツレヘムに向かったのです。住民登録の勅令がなければ、臨月の妻を連れてこんな長旅をするはずがありません。不思議な話です。

さて、長い道のりを旅してやっとベツレヘムに着いたヨセフとマリア。ところが、住民登録の勅令の影響でしょう、宿はどこもいっぱいでした。新約聖書で「宿屋」を表す単語は2つあるそうです。一つが「パンドケオン」で、今でいうホテルや旅館のような、宿泊施設のようなものです。良きサマリヤ人のストーリーに出てくる宿屋は、この「パンドケオン」です。そしてもう一つが「カタルマ」と言って、普通の民家のちょっとしたスペース、空間を空けて、人に貸すタイプの宿屋で、このルカ2章7節の宿屋は、実に「カタルマ」なのです。パンドケオンはどこもいっぱいで宿泊できなかったので、彼らは、カタルマを探すのですが、そこでも宿を見つけられず、やむなく家畜小屋で夜を過ごすことにし、そこでマリアは出産したということです。

この2週間、私たちとガルシア夫妻は、ジャンさんの家探しをしました。2週間前、私たちは、ジャンさんが、レストランの床にじかに寝ていることを知りました。私と主人はそれを聞いて、印西の家にジャンさんを迎えようと話し合いました。するとホセさんとシャイネルさんも同じことを考えていて、ジャンさんを家に泊めたいと申し出てくれました。そして、ジャンさんはガルシア家にホームステイすることができました。久しぶりにベッドで寝たと、彼はとても喜んでいました。それから、私たちの家探しが始まりました。けれどもジャンさんのビザでアパートやシェアハウスを借りることはとても難しかったのです。何軒も何軒も断られると、心が折れそうになりました。今度こそはと期待したところに断られたときには途方に暮れました。けれども、シャイネルさんは、すぐに立ち上がって、新しい物件を見つけてきて、ジャンさんも直接申し込みに行き、やっと、彼のビザで入れるシェアハウスを見つけることができたのです。主に感謝します。

私たちは、この個所を読むときに、イエスさまは居場所がなかった…と思います。イエスさまは、人々に拒絶され続ける人生でした。生まれたときだけではない、人々に蔑まれ、苦しめられ、拒絶され続ける人生でした。そして、最後は十字架につけられ殺されたのです。イエスさまは言いました、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と。

けれども、私はこの聖書の個所を何度も読む中で気づいたのです。実はイエスさまこそ居場所なのではないかと。イエスさまは、私たちの居場所になってくださるために、人々に拒絶される人生を歩まれたのではないかと。イエスさまのおられるところ、そこが居場所なのです。そもそも居場所とは、なんでしょう。「居場所」とは、単に物理的にいる場所という意味だけでなく、心や人間関係の中で安心して存在できるところを指す言葉です。言い換えると、「自分が自分のままでいても大丈夫なところ」なのではないでしょうか。それなら、イエスさまこそが、真の居場所です。この居場所はすべての人に開かれていて、誰も拒絶しない場所です。なぜなら、その場所は、家畜小屋の飼葉桶という当時の社会の一番底辺にあったからです。そうだとすると、イエスさまを拒絶した人々こそが、本来の、人間がいるべき居場所を失った人々ということにならないでしょうか。

また、イエスさまの誕生は、裏舞台でひっそりと起こったことではないことも覚えておきたいです。世界の片隅で、誰からも忘れ去られるような出来事でもありません。この後、羊飼いたちは、天の軍勢の大合唱を聞きます。その大合唱のセンターは、他の誰でもないイエスさまです。天の軍勢は、グローリア!神に栄光あれ!と生まれた救い主を賛美し、礼拝していたのです。博士たちもそうです。彼らは星に誘導されて、イエスさまを拝みにきました。そして星が、イエスさまがおられる家にとどまったのです!星のスポットライト!そのスポットライトをあびているのは、もちろんイエスさまです。霊の眼を開けば、表舞台には、いつでもイエスさまがおられます。

 

ですから、飼葉桶で生まれたイエスさまは、みじめでもかわいそうでもありません。みんなに拒絶されてかわいそうなイエスさまじゃないのです。イエスさまは、自ら、飼葉桶を選んで生まれてきてくださったからです。そして、すべての人を招くのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と。

イエスさまこそ居場所。居場所は「自分が自分のままでいても大丈夫な場所」です。「私は汚れてしまった。」そう思いますか?イエスさまは、あなたの居場所になるために、牛の糞尿のにおいがするところで、汚いところで生まれてくださったのです。「私は罪深いのです」そう思いますか?だから、イエスさまは娼婦や取税人のような社会の嫌われ者といつも一緒にご飯を食べたのです。イエスさまは、あなたの居場所になるために、神の御位を捨てて、人となって生まれてくださり、人と同じように痛みと悲しみを経験してくださり、嫌われ者になってくださったのです。そして、私たちの罪からくる痛み悲しみ、人生の重荷をすべて背負って十字架にかかって、神のさばきを受けてくださいました。こうして私たちに向かって両手を広げて、「さあ、もう大丈夫だよ。わたしが全部解決したから、わたしのところに来なさい。わたしのいるところに、あなたもいなさい。今から、永遠に、わたしを居場所にしなさい。」イエスさまは、そう言って私たちのことを迎えてくださいます。クリスマスには、私たちはイエスさまのことを「インマヌエル」と呼びます。「主はともにおられる」という意味です。主は私たちとともにおられる。イエスさまが一緒なら、もう居場所を失うことがありません。お祈りしましょう。


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