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エマオの途上(ルカの福音書24章13~32節)

 


「エマオの途上」

ルカの福音書24章13~32節

 

ここに二人の弟子が登場します。一人の名前はクレオパでした。もう一人の名前は記されていませんが、二人ともイエスさまの弟子でした。イエスさまが特に選んで身近に置いたのは皆さんご存知12人の弟子でしたが、それ以外にもイエスさまにはたくさんの弟子がいたのです。ルカの10章では70人の弟子たちに病気を癒したり、悪霊を追い出す権威を授けて送り出した記事がありますが、恐らくこの二人はその中にも入っていたことでしょう。

13節に「ちょうどこの日」とあります。イエスさまが十字架につけられて、墓に葬られたのが、金曜日の夕方。土曜日はイエスさまはお墓の中でした。そして安息日が明けた日曜日の早朝、時間がなくてイエスさまの遺体にちゃんと香油を塗るなどの処置ができなかったことを気にしていた女の弟子たちが、夜明けを待って大急ぎでお墓に行きました。すると、お墓を塞いでいた大きな石がわきに転がしてあり、イエスさまの遺体がなくなっていました。女の人たちは困ってしまって、立ちすくんでいると、み使いが現れて言うのです。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(5-7節)その時に、この女の人たちは、「あっ、そういえばそうだった!イエスさまは必ず三日目によみがえると言っておられた!」と思い出し、実際イエスさまにお目にかかったわけではなかったのですが、イエスさまのよみがえりを信じて、急いで弟子たち+αに知らせたのです。ところが、お弟子さんたちは、信じませんでした。彼女たちの言うことを「たわごと」だと思ったのです。当時は女性の証言はまともに聞いてもらえなかったのです。

クレオパともう一人の弟子は、恐らく女たちの知らせを受けたその場所にいたと思われます。そして彼らも、女たちの話を「たわごと」だと思ったのです。そして、彼らはとにかくここから離れたいと思いました。イエスさまが逮捕されてからというもの彼らはあまり寝られなかったでしょうから、どこか静かなところで休みたいと思ったかもしれません。あるいは、イエスさまの弟子たちも命が狙われるかもしれないと怖かったのかもしれません。また、イエスさまを失ったロス感もあったでしょうし、今までイエスさまが国を立て直してくださることを信じて従ってきたので、イエスさまの死によって、その期待が打ち砕かれ、ひどく失望していたこともあったでしょう。

エマオ、そこはエルサレムから60スタディオン、つまり11㎞離れたところの小さな村でした。二人のうちのどちらかの実家があったのでしょうか。彼らはエルサレムを離れ、エマオに向かいました。エルサレムは標高750m~800mの高いところにありましたから、エマオに行くには下り坂でした。下るのはいつも簡単です。彼らは、とぼとぼと歩き始めました。二人が話すのはあのお方のことです。14,15節では、「これらの出来事すべてについて話し合っていた」「話し合ったり、論じあったり」していたとあります。彼らの関心は「起こった出来事」にありました。こんなことがあったね、どうしてこうなったんだろうね、どうすればよかったんだろうね、すべて出来事です。そして話し合えば話し合うほど、彼らの希望はしぼんでいきました。もう無理だ、もう終わりだとネガティブな方向に向かっていきます。私たちもそうですね。「現実」「出来事」「目の前の問題」に注目すると、私たちの視野は狭くなり、後ろ向きになり、失望するしかなくなります。

 

けれども、そんな二人に「イエスご自身が近づいてきて、彼らとともに歩き始められた」のです。都会の雑踏ではありません、田舎道です。普通なら人が近づく気配がするでしょう。けれども、二人が話に熱中していたせいか、イエスさまが隣に来るまで気づきませんでした。ふと気づくと隣に誰かがいて、自分たちの話していることに聞き耳を立てているのです。二人はそれがイエスさまだとは気が付きませんでした。「二人の目はさえぎられていた」からです。いつもいっしょにいたイエスさまなのに、どうしてイエスさまだと認識できなかったのでしょうか。マルコの福音書の平行個所では、「別の姿でご自分を現わされた」とあります。復活後の外見というのは、結構変わるのかもしれませんね。そうだとしたら、皆さん嬉しいでしょうか、残念でしょうか。私も天国では若くてすらっとしていて美しいかもしれないので、みなさんちゃんと見分けて声をかけてくださいね。

けれどもここでは「目はさえぎられていて」とあります。ですからイエスさまの外見というより、弟子たちの目に問題があったようです。フィジカルな目と言うよりは、心の目のことでしょう。私たちはどんな時に、心の目がさえぎられるでしょうか。私は、「常識」や「先入観」、「思い込み」がある時です。私たちはこのような色眼鏡で人や物事を見て、決めつけることがよくあります。

もし弟子たちも同じなら、彼らの思い込みはこうでしょう。「イエスさまは死んだ」「墓に葬られたからここにいるはずがない」「人は一度死ねば生き返ることはない」。とても常識的な考えです。けれども、そのせいで彼らは、せっかくイエスさまがそばにいてくださっているのに気づかないのです。私たちも同じです。イエスさまは今も、いや、今までもずっと、私たちのそばにおられました。私たちが悲しみに暮れていたとき、困難に直面したとき、孤独だったとき、いつも傍らにおられたのです。けれども残念ながら私たちの目はさえぎられていてそれを見ることができなかったのです。

さて、イエスさまは二人に声をかけました。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか?」二人はびっくりして立ち止まりました。そしてその顔はすぐに曇り、ため息交じりで答えました。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」彼らは心底びっくりしたのだと思います。この人は自分たちと同じ方向に向かって歩いていました。つまりエルサレムからやって来たのです。それなのにこの人は何も知らない。この人は一体どこで何をしていたのか、彼らは驚きを通り越してあきれ返っていました。そして説明を始めるのです。その町中を引っ掻き回すような出来事の張本人であるイエスさまを前にして!

弟子たちが説明したことの要約は、聖書に記されています。19節後半から、「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。」彼らが見ていた事実、出来事です。続けて彼らの見方が続きます。21節「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。」 彼らの目から見たイエスさまは、イスラエルの解放者、栄光のイスラエルを取り戻してくださる政治的なヒーローでした。そして続けます。21節後半「実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 客観的な事実の羅列です。出来事の報告に終始しています。けれども、自分たちの常識、先入観、思い込みが邪魔をして、これらの事実を受け止めきれないでいる様子がよくわかります。

これらのことをイエスさまはまず聞きました。「何のことですか?」「どんなことですか?」と弟子たちに尋ねたのです。イエスさまは、起こった出来事を私たちがどう認識しているのか、どう解釈しているのか、どう受け止めているのか聞きたいと思ってらっしゃいます。私たちも話しながら、気持ちを整理することができます。イエスさまは本当に「偉大な助言者(Wonderful counselor)」ですね。

そして今度はイエスさまが口を開きます。25節「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」

叱責です。忍耐深い、優しいイエスさまですから、よっぽどのことです。ずっと言ってきたじゃないか。必ず苦しみに遭うこと、それから栄光に入るのだと、特に公生涯の終わりからは、何度も何度も繰り返し語って来た。どうして悟らないのだ! 「目がさえぎられている」というのは、こういうことです。常識、先入観、思い込みが私たちの目を塞ぎ、見えないようにしているのです。

27節「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」イエスさまは叱って終わりじゃないのです。叱って「もういい!」と見捨てられるお方ではないのです。また一から話し始めます。モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)から始まって、預言書、詩篇、歴史書、すべてから、来るべきメシア、キリストについて書いてあることを示しました。

「みことば」に鈍い私たちに、それでも「みことば」で説き明かし訴えるイエスさま。奇跡を見せるでもなく、感情に訴えるのでもなく、淡々とみことばを語られるのです。私たちの塞がれている目が開くには、聖書のみことばを聞いて、それを信じるしかないのです。

そうこうしているうちに彼らの目的地に着きました。もう夕暮れです。彼らはまだ、このお方がイエスさまだとはわかっていません。けれども、イエスさまの話をもっと聞きたいと思ったのでしょう。彼らは先に行きそうなイエスさまを引きとめて、このままここで食事をして泊まって行ってくださいと勧めます。「強く勧めた」とありますから、イエスさまの袖をつかんで、離さなかったのでしょうね。イエスさまも折れて、そこに泊まることにしました。

食事の席で、自然とイエスさまの方が主客(ホスト)になりました。そして「パンを取って、神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されたとき」に塞がれていた彼らの目が開かれました。そして、この目の前にいるお方がよみがえったイエスさまだとわかったのです。「あっ、イエスさま!!」と思ったら、そこにはもうイエスさまのお姿はありませんでした。復活のからだの不思議です。

32節「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」 彼らはエマオへの道でイエスさまが切々と語ってくださった聖書の話を思い出しました。心が燃える思いでした。そして、その炎はもう消されることがありません。これから彼らは、開かれた目で聖書を読むことができます。きっと以前とは全然違うことでしょう。

私たちも復活のイエスさまに出会うと、聖書が面白くなります。みことばが心に響いてくるようになります。けれども、復活のイエスさまに出会うためにも、やはり聖書です。みことばです。そして集まって礼拝し、ともにパンを裂くことです。聖餐式に与ることです。みことばが語られるところに聖霊が働き、聖餐式ではキリストの臨在があふれるからです。

復活の主は、いつも私たちとともにおられます。私たちの目が開かれて、このともにおられるイエス・キリストに気が付きますように。


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