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心の貧しい者の幸い(マタイの福音書5章1~3節)

 


「心の貧しい者の幸い」(マタイ5:1-3

はじめに

1節「その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た」。

 

 イエスが山に登り、弟子たちがその前に集まる。そしてイエスが口を開いて教え始める。有名な教え「山上の説教」の始まりです。これからしばらくの間、この山上の説教から皆さんと学んでいきたいと思います。

 イエスさまがこのようにして語り始めた教え。それは、これまで誰も聞いたことのないような教えでした。イエスさまが語り終えたときに聴衆は皆驚くのです。彼らは、世間一般の倫理道徳と異なる、新しい生き方に目が開かれていくのです。

 

1.    幸いとは

3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」。

 

 3節は、山上の説教全体の主題です。この短い言葉の中に、山上の説教の教えが凝縮しているとも言われます。ですが、皆さんどうでしょう。これを読んで何をお感じになったでしょうか。「これが本当に幸いなのか」と、戸惑いを感じた方もあるかもしれません。少し想像してください。何の前触れもないままに、もし皆さんが人から面と向かって、「あなたは心が貧しい」と言われたら、私も含めて殆どの方が憤慨すると思います。普通に聞くならば、ここで言われる「心の貧しさ」は、どう考えても幸せとは結び付かないのです。

しかし、キリストは「心の貧しさ」を幸いであると言われました。この世の価値観とは逆をいっています。これは私たちが聴いたことのない教えなのです。いつの時代も世の中には、幸せを語る書物や思想が数多くあります。「こうすれば幸せになれる」「これが幸せだ」と、幸福を語る教えはいつの時代にも絶えることがない。それは当然です。人は誰しも幸せになりたいし、幸せを求めるのです。しかし、そうした世の中の教えとは全く異なる響きがここにある。「心の貧しい者の幸い」。これはキリストだけ、聖書だけが語る価値観なのです。

この3節の御言葉は、私たちに問いかけているのです。「あなたは本当に幸せですか」と。私たちは誰もが「自分の幸せ」について考えてきたと思います。そして自分なりに、「これが幸せだ」という、自分なりの幸福観を持っています。そんな私たちに御言葉は問うのです。「それは本当の幸せですか」と。

これは、私たちが幸せを感じているかどうかとは別の話です。キリストの教えによれば、たとえ私たちが幸せを感じていても、実はそうではないことがある。今感じている幸せが、実は本物ではないことがあり得ます。また、その逆もあります。肩を落として下を向き、人生の苦難を嘆いていたとしても、そんな人に向かってイエスさまが、「あなたは実は幸いなのですよ」と語りかけることがあるす。そのように、この教えは私たちが幸せを感じているかどうか、という実感の問題ではないのです。そうではなくて、私たちが人生の本当の幸いを知っているかどうかを問うているのです。

これまで、私も何度か、本当の幸せについて考えたことがありました。最初の衝撃は、1995年の阪神淡路大震災でした。あの震災で6,400名を超える人々が亡くなりました。あの震災以来、日本は自然災害の頻発する時代に入ったように思います。皆さんは、阪神淡路の本震の揺れがどれくらい続いたか覚えておられますか。わずか10数秒、長く見積もっても15秒。直下型の地震ですから、たった15秒でもあれだけの被害になるのです。そしてたった15秒の揺れだけで、人生がひっくり返るような経験をした方々がいたのです。あの震災の折り、私は新潟で牧師をしておりました。教会の皆さんが一様に溜息をつきながら、人生が何と脆弱な土台の上に立っているかと、不安を口にしていたのを覚えています。たった15秒の揺れで人生が変わってしまう。私はいてもたってもいられなくなり、教会の支援金を携えて新潟から関西に向かいました。同僚の牧師の助けを得て、何か力になれることはないかと神戸の教会や避難所を訪問したのですが、自分の無力を覚えながら新潟に戻ったのです。でも、あの時に神戸市街で目にした光景は、生涯忘れないと思います。

今日の御言葉に聴きながら、私たちはもう一度自分に問いたいと思います。私たちは本当に揺るがない幸いを握っているのでしょうか。山上の説教によれば、本当の幸いとはどうも、私たちが自分で獲得して守っていけるものではないようです。

 

 「心の貧しい者は幸いです」。これを自分の実感として口にできる人は実は少ないと思います。もしこれを心から言えるなら、その人は、立っている人生の土台の違う人です。この土台を分けるのは、たった一つのポイントです。それは、この世界は神の治める世界だと信じているかどうか。聖書によれば、実はこの世界には二つの生き方しかないのです。それは「神を信じる生き方」と、「人(つまり、自分もしくは他の誰か)を信じる生き方」です。おそらく殆どの人は、自分もしくは誰かを信じ、頼って生きていますね。自分の努力を信じる人がいます。私もかつてそうでした。努力は必ず報われる…と。もちろん、努力や勤勉さは大事だし必要です。あるいは「あの人がいれば大丈夫」「この人に頼れば安心」と、誰かを頼りにする人も多いでしょう。それも時に必要です。私たちは一人では生きていけません。でも、「心の貧しい者は幸いです」と心から言える人は、人生の根本の土台が違うのです。

 心の貧しい人は幸いだと、なぜキリストは言うのでしょうか。その理由は、「天の御国」が、その人たちのものであるからでした。天の御国とは何でしょう。別名、神の国とも言われますが、これは神がおられ、その恵みによって治めているところです。いわゆる死後の天国だけではありません。この世界もまた神の手の中にあり、神が恵みで治めていると信じれば、私たちの周りにも、そして、私たちの心にも神の国が訪れるのです。この世界には神がおられ、神が恵みで支配している。このことを信じると不思議なことに、この世界の見え方が違ってくるのです。山上の説教が教えているのは、そうした世界の価値観なのです。

 

2.    心の貧しい者とは

この世界には神がおられ、神が恵みで治めている。この価値観で生きる時に「幸いだ」と言われる「心の貧しさ」とは、いったいどんな意味でしょう。

「心の貧しさ」は、いわゆる、その人の性格ではないのです。「心の貧しさ」とは、実は「霊の貧しさ」とも訳せる言葉で、神とその人の関係を物語るものです。一言で言えば、神の前に自分の貧しさを正直に認めることができる。そんな謙遜さのことなのです。神を前にして、自分は神なしで生きていけると胸を張るのではなく、自分の貧しさを認めて、「私には神の恵みと愛が必要です」と心から言える。そんな人が「心の貧しい人」です。

この「心の貧しい人」を絵にしたような場面が聖書にあります。ルカ福音書18章でイエスさまが教えてくださったたとえ話です。二人の人が神の宮で祈っていました。一人はパリサイ人という当時の宗教的なエリートで、もう一人は取税人。パリサイ人は人々から尊敬を受けており、自分が如何に敬虔に生きているか、また隣にいる取税人のようではないことを、神に感謝し、胸を張って祈ったのでした。

もう一人の取税人は、自分の同胞から税金を集めてローマに収めているということで、人々からは軽蔑されていました。取税人は、項垂れながら胸を打ち叩いて祈るのです。「神様、罪人の私をあわれんでください」。そしてイエスさまは言うのです。神の前に正しいのは、実は取税人の方だ、と。取税人は神の前に自分の貧しさを知っていたのです。自分には神の赦し、神の恵みが必要だと知っていました。「心の貧しい人」は、神の前に自分の貧しさを知っているのです。

 

 今年は二月に冬のオリンピックが開催されました。日本中が歓喜に包まれましたね。特にフィギアスケートのペアで金メダルを獲った「りくりゅう」ペアに日本中が感動しました。最初の演技の失敗の翌日に、彼らは自分たちを信じて立ち直り、史上最高の得点を叩き出して大逆転。私も感動して、インターネットで何度も彼らの演技を見返したものです。

 りくりゅうペアの姿、自分たちの努力と技術を信じて栄冠を勝ち取った姿は本当に素晴らしい。でも、しばらく時間が経つと私は少し冷静になりました。何年も努力して、自分たちを信じて戦ったのは、何も「りくりゅう」ペアだけではなかったはずです。おそらくすべての競技者が、自分を信じ、自分の努力を信じて演じたけれど、栄冠を手にするのはほんの一握りの人たちだけ。多くの人は努力にもかかわらず、敗者となってオリンピックを終えたのです。努力は大事です。目標をもって誠実に取り組むことも本当に大事。でも、すべての努力がこの世界で報われるわけではない。それが現実ではないでしょうか。でも、スポーツ競技だからまだいいのです。これを人生に置き換えてみたらどうでしょう。

 すべての人にとって努力することは大事です。でも、全ての人が、その努力を報われるわけではない。むしろ報われない人の方が多いかもしれない。ここで人生の土台が物を言うのです。神を信じて生きているのか、それとも人を信じて生きているのか。神を信じて生きる人は、努力しながらも、神の前における自分の貧しさや限界を知っています。そして、この世界における成功、不成功に拘わらず、心貧しい人は、天の御国に迎えられていくのです。これが「心貧しき者」の幸いです。立っている人生の土台が違うのです。

 

3.    天の御国

 今朝の招きの御言葉はイザヤ書61章でした。このような御言葉です。

である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた」。

「貧しい人に良い知らせを伝えるため」「主は… わたしを遣わされた」。この言葉は、この世界に救い主として来られたイエスさまの使命を語っています。キリストは、神に寄り頼む貧しい人に良い知らせを伝えるためにこの世界に来た。そして山上の説教において、「心貧しい者の幸い」を語ってくださいました。この教えに応答して、もし私たちが「自分には神の恵みと愛が必要です」と祈るなら、その人は天の御国に住むようになるのです。

 この世界には二つの生き方があります。神を信じて生きる生き方と、人を信じて生きる生き方。もちろん、すべての人にとって誠実に目標をもって人生を生きることは大切です。それは信仰の有る無しに拘わらず大切なことです。けれども、神を信じて生きる人は、たとえ努力していても、自分で幸せをつかもうと肩に力を入れる必要がない。自分の貧しさを知っていますから、神の恵みに寄り頼んで生きていくのです。努力がこの世で報われるかどうかは分からない。でも、最後は神が満たしてくださる。困難の時も神が守って下さる。それが天の御国に生きることです。天の御国に生きる安心とは、こういうことなのです。

 ご存じの方も多いのですが、私は宣教師だった時代に挫折を経験しました。台湾に遣わされて二年目です。中国語の修得とともに、異文化の生活に適応し、家族を支えるために懸命に努力していた時に病になった。胃潰瘍から始まり、不眠となり、最後は精神的にも燃え尽きました。燃え尽きてしまって、何も手につかなくなった時に私は気づいたのです。「自分は、神の恵みではなく、実は自分の努力を信じていたのだ」と。暗いトンネルを抜けるのに半年以上かかりましたが、つらい日々にあっても、最後は神が恵みで満たしてくださいました。多くの方々からお祈り、お便り、ご支援を頂き、自分を支えているのは自分自身ではないということを知りました。病を通して、それまで知らなかった恵みの世界、天の御国を経験したのです。あの経験が土台となり、十四年以上に及んだ宣教師の働きを全うすることができました。

 

結び

 心の貧しさを知る生き方。それは自分の貧しさを正直に認める生き方。神に向かい「主よ、私にはあなたの恵みが必要です」と祈りながら生きていくことです。すると私たちの前には、それまで見えなかった神の恵みの世界が開けていく。この神の国の価値観の中で私たちは、神と人を愛する生き方へと成熟していくのです。お祈りします。

 

天の父よ、感謝します。あなたの恵みによって私たちを満たしてください。心へりくだって神と人に仕えて歩むことができますように。救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。


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