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キリストに向かって(エペソ人への手紙4章14~16節)

 


「キリストに向かって」

エペソ人への手紙4章14~16節

 近年、結婚をしたがらない若者が増えていると言われています。一番最近のこども家庭庁が2026年8月に発表した15〜39歳を対象とした大規模調査では、未婚の若者のうち35.1%が「結婚するつもりはない」と回答しています。「いずれは結婚したい」という若者が37.5%ですから、それに迫る勢いです。「結婚するつもりはない」と答えた人の理由の第一位は、安定した生活を送るための収入への不安(約40%)ですが、第二位は、自由な時間や趣味の時間が少なくなること(約34%)だそうです。結婚すると自分のために使える時間やお金がなくなるからあえて結婚しないと言っている人が多いのに驚きました。

もう一つ、米国では、アメリカ聖書協会の2025年の調査によると、クリスチャンと自認する成人の約45%が過去6か月間に教会に出席していないことが分かっています。また、日本国内においても、キリスト教人口は1%に満たないと言われて久しいですが、少子化高齢化の影響やオンライン礼拝の充実を機に、教会に属さないクリスチャンが増えていると言われています。あるYouTuber牧仕(彼らは自分たちをこう呼びます)は、1年で100人以上の人に洗礼を授けたと言っており、びっくりしたことでした。このYouTuber牧仕の感触としては、恐らく、教会に行かないクリスチャンは、日本全国で100万人はいるだろうと言っています。彼らは、名ばかりのクリスチャンではなく、イエスさまを救い主として信じ、受け入れ、ある人は洗礼も受け、その上で、教会に行かないで、一人で聖書を読み、祈り、YouTubeなどを通して礼拝しているクリスチャンのことです。彼らが教会の礼拝に行かない理由は、いろいろあるでしょうか。以下のことが考えられます。①自分のライフスタイルに合わない。②教会のコミュニティが煩わしい。③教会員制度や月定献金、奉仕分担が面倒。④かつて教会で牧師や信徒仲間に傷つけられた経験がある⑤単純にどこの教会に行っていいのかわからない。

結婚をしたがらない若者と、教会に行きたがらないクリスチャン。この現代人の傾向に共通点を見るのは私だけでしょうか。私は以下のような共通点を見ます。①かたちや制度にはまりたくない。結婚をしない人たちは同棲や事実婚というお互いを束縛しない、自由なあり方を好みます。教会に属さない人たちも、教会員制度やそこに含まれる献金や奉仕の責任を煩わしく思う傾向があると思います。どちらも責任ある関係を持ちたくないという点で共通しています。②お互いの関係の中で、傷つけ合うようなリスクを回避したい。結婚生活はもちろん、教会生活も、人が集まれば摩擦が起き、お互いに傷つけ合うということは避けられません。③関係を築くための努力が面倒くさい。「夫婦は一致の努力、親子は分離の努力」と言います。お互いの関係を築き上げるためには忍耐や努力が必要なのです。④支配・被支配の関係、依存関係など、健全ではない関係がそこにあるという現実も残念ながら共通項です。夫婦間のDVやモラハラや、カルト化した教会は、同じ根っこを持つと思われます。

このような現代の精神風土の中では、確かに結婚することにも、教会に属することにも、積極的な意味は見いだせないでしょう。けれども、このような結婚観、教会観は、本来の姿からはかけ離れています。こんなはずではないのです。今日は、聖書の語る結婚観、教会観を見ていきたいと思います。

 

さて、今日のテキストでは、「教会」について書かれています。「教会」は、ギリシャ語では「エクレシア」です。この「エクレシア」という言葉は、新約聖書中に114回出て来ますが、その内、90回(約80パーセント)が、明らかに個別の地域教会を表しています。いわゆるクラウドチャーチではありません。実態のあるリアルな教会です。

 

14節「こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、」

今日の聖書個所のテーマは、「成長」ですが、まずはここで、成長していない子どものままのクリスチャンの特徴が描かれています。ここで言う「子どもは」イエスさまが「誰でも子どものようにならなければ神の国に入れない」と言われた「子ども」ではありません。この時イエスさまが言われた「子ども」(childhood)の特徴は、自分の弱さ、小ささを知って、親に信頼してゆだねる、そんな子どもの単純でまっすぐな信仰を表しています。けれども、ここで言う「子ども」(childish)は、子どもの「幼稚さ」「未熟さ」「正しい価値観や識別力が育っていない状態」を表しています。

私たちは、本来イエスさまを信じてクリスチャンの歩みを始めると同時に成長を始めます。それは体の成長と同じで、成長し続けないと死んでいきます。体が細胞を作り続けるのをやめるなら、成長が止まるにとどまらず、死へと向かっていくのと同じです。

また、クリスチャンの成長は、「行いがよくなる」真面目な、品行方正なステレオタイプの「ザ・クリスチャン」になることではありません。誤解を恐れないで言うと、「罪を犯さなくなる」ことでもないのです。では、クリスチャンの成長とは何なのでしょうか。それは、後でもう少し詳しく説明しますが、「キリストに向かって」(15節)、「愛のうちに建てられる」(16節)ことです。つまり、イエスさまを目指して、イエスさまに近づく。そしてイエスさまとの近しい愛の関係の中で生き、イエスさまのご人格が私たちの中にかたち作られ、イエスさまのように愛する者になるということです。

14節にあるように、成長していないクリスチャンは、「人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたり」します。まだ子どもなので、何が「悪だくみ」なのか、何が「悪賢い策略から出た教え」なのか見分けがつかないからです。そして、そちらの方が魅力的に見えたり、もっともだと思ったりして流されていきます。ここには「人の」悪だくみ、策略とありますが、その背後には、私たちをだましたり、罠にかけようとする敵の存在があります。敵の目的は何か?それは、神の愛から私たちを引き離すこと、神の愛を疑わせることです。「おまえは、神の愛を得るためには、まだ足りていない。」「神はおまえを恥じている」「そんなんじゃ、神の愛を獲得できない」「神さまは、失敗ばかりするお前をもう愛していない。見放している」「もっとがんばれ!」「もっとちゃんとしろ!」敵はそう私たちを責め立て、神の愛を疑わせ、引き離そうとするのです。私たちはそのような声に吹き回されたり、もてあそばれたりしないようにしないようにしたいものです。そのためには、神さまの愛のメッセージであるみことばを通して、日々神さまの愛を受け取る必要があります。そして日々「神さま、あなたがどんなに私を愛しておられるか教えてください」と祈るのです。聖書は神かさまらのラブレターです。毎日愛のメッセージを受け取ってください。こうして神さまから受け取った愛は、私たちの中で血となり肉となり、私たちはそれによって自ずと成長し、イエスさまのように愛する者へと変えられていきます。

 

15-16節「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」

15節初めの「むしろ、愛をもって真理を語り」というのは、前節との対比になっています。「教えの風(嘘)」に振り回されるのではなく、「愛をもって(真理に立ち)、真理を語りなさい」と言っているのです。ここでの「愛」は「アガペー」の愛です。このアガペーの愛は、神さまだけが持つ、聖なる愛、一方的で無条件の愛です。そして、「真理を語り」と言うのは、「真理を保ち」とか「真理の内を歩み」とも訳せることばです。イエスさまは、「私が道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃいました。「真理」は、イエスさまのものです。また、16節冒頭にある「キリストによって」と言う言葉も、口語訳では「キリストを基として」とも訳されています。そうなると、教会は真理、すなわちイエス・キリストに立ち、そして目指すところも「かしらなるキリスト」という構図が自ずと描かれます。

またパウロは、彼の書いた手紙の中で、「教会はキリストのからだ」をいう表現を好んで用いました。「コリント人への手紙」では、「教会はキリストの体であり、一人ひとりは各器官なのです」と言っています。「器官」というのは、「手」や「足」などを表しますが、16節では、「節々」と言っていますから、これは骨をつなぐ「関節」を表しています。

人間の体にはたくさんの骨とそれをつなぐ関節があります。人の体には、200本を超える骨がありますが、関節の数はさらに多く、約260か所以上あるそうです。 関節は、言うまでもなく、骨と骨とのつなぎ目で、肩や肘、膝、足首、指など、全身のさまざまな場所に存在します。関節を動かすことで、歩く、しゃがむ、物をつかむなどの動作が可能になります。ばらばらの骨がいくらたくさんあっても、体にはなりえません。関節を通して組み合わさるときに、初めて体はしなやかに動き、機能するのです。

私たちひとり一人が骨のひとつひとつだとすると、骨と骨をつなげている節々は、「キリスト」です。16節冒頭に「キリストによって」とあり、「節々を支えとして」とありますので、これはキリストによって組み合わされ、キリストを支え(支点)としてつなぎ合わされるという意味です。つまり、教会の構成員である私たちひひとり一人は、イエスさまによってつながれているということです。

長く教会生活をしておられる方ならよくわかると思いますが、教会の人間関係はなかなか難しいです。教会じゃなかったら絶対に付き合いしないような人たちが集まっているのですから仕方ないです。年も違えば、経済力も違う、性格ももちろん違うし、最近は外国の方も入って来られる。ですから、歴史の長い教会は、その分いろんな痛みを抱えているものです。ですから、教会は、イエスさまという「節々(関節)」につないでいただかなければばらばらになってしまうのです。もっというと、イエスさまの十字架の「ゆるし」と「とりなし」がなければ、とてもじゃないけれど一致することができないのです。

 

こうして教会は、かしらであるキリストに向かって成長します(15節)。そして、「成長して、愛のうちに建てられることになります」(16節)

生きている教会は成長します。「成長」と聞くと、私たちはすぐに教会が大きくなるという数の成長を思い浮かべますが、教会の成長は、「愛する」ことにおける成長です。これは、個人の信仰の成長も同じです。私たちは、信仰の成長について、「キリストに似たものになる」とか、「神のかたちを回復する」とか言いますが、教会も同じです。父、子、聖霊の三位一体の神さまの完全な愛の交わりを映し出す鏡として、アダムとエバは創造されました。人は一人で生きるようには創られていません。交わりの中で生きるように創られました。その交わりの中で、支え合い、助け合うようにと創られたのです。ですから人は、人と人との交わりの中で、愛することを学び、愛することにおいて成長するように召されているのです。

「それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して」とあります。三つのご位格は、それぞれの役割を果たしておられます。父なる神さまはこの世界を創造され、今も統べ治めておられます。イエス・キリストは、人として地上での生涯を全うし、父なる神に従いきって、十字架によって私たちの罪を贖い、罪と死を打ち破って復活するという役割を果たされました。そして、聖霊なる神さまは、私たちの内で働き、神さまのみこころを教えてくださり、私たちの歩みを導いてくださいます。そして、三位一体の神さまは、私たちを愛すること、救うことのために、力を合わせて働いておられるのです。教会もそれと同じです。「それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して」とあります。 教会も家族も夫婦も、神を愛し、人を愛するという目的のために、それぞれの役割を果たし、働くのです。そうやって、教会は、神の愛のうちに建てられていくのです。

この後応答の賛美として教会福音讃美歌の232番を賛美します。2番はこんな歌詞です。「賜物は仕えあうため 与えられる キリストのうるわしい姿に近づくため ※我らはキリストによって 愛のうちに建てられる 我らはキリストのもの 主は我らのもの」

今日、二人の兄弟姉妹が婚約して、結婚への備えをします。結婚の目的は、自分が幸せになるために相手に協力してもらうものではありません。自分の持てるもの、賜物をもって互いに仕え合い、愛し合うことによって、三位一体の神さまの麗しい愛の交わりを映し出し、その交わりを喜ぶために結婚するのです。もちろん簡単ではありません。けれどもキリストが「節々」となって二人をつないでくださいます。どうぞ、この目標を見失わないで結婚に備えてください。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、地上の教会を見るときに、争いがあり、分裂があります。そして多くの人がそんな教会に躓き、離れていきます。けれども本来の教会は、三位一体の神の愛の交わりを映し出すものとして創られました。欠けだらけの私たちであり、教会ですが、本来のあるべき姿をしっかりと見つめ、どうぞこの共同体の中で、何よりも愛することを学び、愛することにおいて成長していくことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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