「兄弟との和解」
創世記45章1~15節
「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。」主よ、今日も私たちの前に、「主の教え」が開かれています。私たちはあなたのみ教えを喜びます。どうぞ、私たちを流れのほとりに植えられた木のように、成長させ、実を結ばせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
44章では、ベニヤミンが奴隷としてエジプトに残らなければならないという緊張の局面で、ユダが必死にとりなしたところで終わりました。ベニヤミンがいなくなったら、父がどんなに悲しむか。どうかベニヤミンではなく自分を奴隷としてほしいと懇願するユダの姿に、ヨセフは、驚き、圧倒され、感動し、兄弟たちは本当に悔い改めたのだ、本当に変わったのだとわかったのです。
人は、真実な悔い改めをすると変わります。単なる後悔や反省では人は変わりません。同じ罪を何度も繰り返し、その度に後悔し、反省し、「もう二度と同じ失敗を繰り返さないぞ」と決意をするのですが、やはり同じことを繰り返すのです。これが罪ある人間の姿です。けれども神さまの前に、自分の罪を認め、真実の悔い改めをするときに、神さまがその悔い改めを受け取ってくださり、私たちの決意や努力に寄らず、私たちを変えてくださいます。もちろん私たちは依然罪の性質をもっていますから、失敗を繰り返すかもしれません。けれども、その度に神さまのみ前に出て、私たちを変えてくださる主の恵みにより頼むとき、主は、私たちが自分を誇らない方法で私たちを変えてくださるのです。
こうしてヨセフは、兄弟たちが本当に変わったのだと知ったときに、「自分を制することができなくなって」人払いをし、兄弟だけになり、ついに自分の身を明かしたのです。「私はヨセフです。父上はお元気ですか?」そしてヨセフは声をあげて泣いたのでした。その場にいなかった「ファラオの家の者もそれを聞いた」というのですから、嗚咽しながら号泣したのでしょう。積もり積もった思いが爆発するような泣き方だったと想像できます。
そんなヨセフを目の当たりにして、兄弟たちはどんな反応だったでしょう。3節後半「兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった」とあります。彼らは、目の前のエジプトの最高権力者が、自分たちがエジプトに売ったヨセフだとは微塵も思っていませんでした。もし1ミリでもこの人がヨセフの可能性があるのではと思っていたらヒントはたくさんありました。父やベニヤミンのことをしつこく聞かれたこと。ベニヤミンに執着していたこと。食事の時には、兄弟の順に座らせたことなどは大きなヒントでした。けれども彼らは、このエジプトの宰相がヨセフであるなんて想像だにしなったのです。ですからその分驚きは大きかった。驚きのあまり、固まってしまって、何も反応できなかったのです。
けれども徐々にその意味が飲み込めてきました。「このお方はヨセフ。そういえば顔に面影がある。今までのこの方の不可解な言動も理解できる。父やベニヤミンのことを執拗に尋ねたのもそういうことか。」そして同時に、自分たちがヨセフにした仕打ちをもう一度思い起こすことになります。憎しみを込めて、乱暴に彼の服を引き裂き、深い穴に投げ込んで、その隣で、ヨセフを殺す計画を肴に食事をしたこと。ついには、このまま殺しても何の得にもならん、売ってしまえと提案したユダのことば…。彼らの顔は引きつり、ゆがみ、後ずさって、その場にひれ伏したのではないでしょうか。
そんな兄たちを見ながら、ヨセフは言います。4節「どうか私に近寄ってください。」彼らが恐る恐る近寄ると、ヨセフは言いました。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」
ヨセフは兄たちがしたことを忘れてはいないのです。忘れられるわけがない。私たちだってそうです。本当にひどい仕打ちを受けたり、ひどい言葉で傷つけられたりしたとき、私たちは絶対に忘れられない。何度も心の中で反芻し、「にがみ」となって私たちの心を蝕むのです。
ところが、この時のヨセフの言葉は驚きです。5節「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」
「あなた方が私を売った、そのことは、紛れもない事実。けれども、今、あなたがたは、そのことで心を痛めたり、自分を責めたりしないでください」、ヨセフはそう言うのです。どうしてこんなことが言えるのでしょうか。それは、「背後に神さまの導きとよいご計画があったこと」を知ったからです。ヨセフは、5節と7節、8節で同じことを繰り返し言います。「神はあなたがより先に私を遣わし、いのちを救うようにされた」と。兄たちがしたことは、本当にひどいことで、それを忘れることはできないし、思い出すたびに、心ににがみが広がる。けれども、このことも神さまの許しの中のことだった。そして神さまのよいご計画に用いられた。「多くのいのちを救う」というそのご計画の実現のために用いられたのだ。だから、お兄さんたちは、もう自分たちのしたことで、心を痛めなくていい、自分を責めなくていい、私に対して負い目を感じなくていい。もうこの縄目から解放されていい。ヨセフはそう言っているのです。
私たちのつらい過去、傷、痛み、まだ残っているかもしれません。そんな簡単に消えるわけがない、絶対にゆるせない、いつか復讐してやる、あいつは不幸になればいい、そんな呪いの言葉が私たちの中に渦巻いているかもしれません。けれどもそんな呪いの言葉は、相手ではなく私たち自身を傷つけます。実は相手を呪っているようで、自分を呪っているのです。そこから解放されない限り、私たちは暗闇から解放されることはありません。それは、ヨセフが投げ込まれたあの深い穴に入ったままの状態です。その深い穴から出て、広い世界に羽ばたくには、ヨセフが告白したように、背後に神さまの愛のご計画を見ることです。
次にヨセフが言ったことは、「急いで父にこのことを伝えてほしい」(9節)、「急いで父上をここに連れてきてください」(13節)ということでした。年老いた父、愛する息子が死んでしまったと思い込んで、20年以上その痛み、悲しみを抱えらながら暮らしている父、そして今回は弟ベニヤミンまで手放して、その無事を祈りながら待っている父に、一刻も早く、この福音を届けてほしい! ヨセフはそう願っているのです。
兄たちも、もちろんこのよい知らせを一刻も早く父に伝えたかったことでしょう。けれどもきっと、こうも思ったのではないでしょうか。「ヨセフは生きていた。一刻も早く父にこのことを知らせてあげたい。けれども、ヨセフは、自分たちがしたことも同時に父に告白することを求めるのではないだろうか。」けれども、ヨセフは、そのことは言わなくてもいいと、暗に伝えているのです。「神はあなたがたより先に私を遣わし」と5節と7節で繰り返し、そして、8節では、「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」と、はっきり「あなたがたではなく」と言っているのです。これは兄たちに、自分たちがヨセフをエジプトに売ったことを言わなくてもいいと言っているのだと私は解釈します。父には喜びのメッセージだけ伝えてほしい、そういうことではないでしょうか。
最後に7節に注目しましょう。
「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」
「残りの者」という表現は、特に旧約聖書の預言書に出てきますが、神のさばきや災難(捕囚など)をくぐりぬけ、神さまによって残された少数の人々を指します。単に災難を潜り抜けたサバイバーというよりは、神さまの救いのご計画と救いの約束が、神さまのあわれみの中で、途切れることなく続いたことを表しています。そして、この「残りの者」の概念は、メシア預言と結びついて、例えば、切り倒されても残された「切り株」から新芽が出るとして、イエス・キリストによる救いへと引き継がれていくのです。
神さまは、こうして、ヨセフによってヤコブの家を飢饉から救うことによって、アブラハムとの約束を守られ、それはイエス・キリストによる大いなる救いまで導かれることを示しています。
さて、結びです。14‐15節「彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。」
ヨセフと兄弟たちは和解しました。ばらばらだった家族が、もう一度一つになったのです。ヨセフは、すべてが神の良いご計画の実現のためだと知ったとき彼らをゆるすことができました。けれども、ヨセフは兄弟たちと和解したかった。信頼関係を回復したかったのです。ですから、罠とも見えるいろんなことをして、彼らの悔い改め、本当に変わったのかを見ようとしたのです。
「ゆるす」ことと「和解」は違います。例えば、伴侶が浮気をしたとします。けれども本人が反省し、二度とこんなことはしないと涙ながらにあやまるので、ゆるしました。けれども、一度裏切られると、相手を心から信頼できるようになるまでには時間がかかるものです。相手が本当に悔い改め、変わったと確信しなければ、本当の意味で和解することはできないのです。
「ゆるし」というのは、傷つけられた側が、怒りや報復したいという思いを手放すことです。ゆるしは、その人の心の中で行われることです。実は相手は関係ないのです。ですから、実は相手の謝罪がなくてもゆるすことができます。そして、ゆるしの目的は、誰よりも自分のためです。自分を縛っている憎しみから自分を解放することなのです。
けれども「和解」は、壊れた関係を修復し、絆を再構築することですから、一人で。はできません。お互いの合意と努力が必要です。そして、相手の悔い改めを確認し、信頼を回復しなければなりません。そうやって、二人の間に、平和な関係、シャロームを取り戻すことが和解なのです。
神さまは私たち信仰者に「ゆるしなさい」と命じています。ゆるしは、相手は関係ない、私たちの中で起こること、決断ですから、私たちは、「ゆるしなさい」という主の命令に従えます。けれども和解は、そういうわけにはいきません。相手の心からの悔い改めと、誠意を見なければ和解できないのです。そういう意味で、ヨセフは兄弟たちをすでにゆるしてはいたけれど、ユダの切実な説得から兄弟たちの変化を見て、和解できると感じたのでしょう。
もう一つ。神さまは、私たちと和解したいと願っておられます。神さまの側はすでにゆるしています。ゆるしは私たちの状態によらないからです。でも、和解はできません。私たちの罪が、神と私たちを隔てているからです。けれども、イエス・キリストは、十字架で私たちの罪を背負い、私たちの代わりにさばきを受けることによって、私たちの罪を完全に帳消しにしてくださいました。ですから、私たちは、悔い改めて、神さまから指し伸ばされている和解の手を取るならば、救われます。神との和解成立です。
そして神との和解を経験した私たちは、人とも和解することができます。私たちの側がゆるしを準備しているなら、相手が手を指し伸ばした時に、その手をとればいいのです。祈りましょう。
天の父なる神さま、みことばをありがとうございます。ヨセフは兄たちと和解しました。兄たちから受けた仕打ちを、彼は忘れることはありませんでしたが、それでも、背後に神さまの大いなる救いのご計画があったことを知ったときに、兄たちを赦すことができました。そして、兄たちが本当に悔い改めて、変わったことを見たときに、和解へと踏み出すことができたのです。神さま、まずは私たちをゆるす者としてください。そして、神と人と和解し、主の平和、シャロームを築く者としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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