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エジプトへの移住(創世記46章)

 


「エジプトへの移住」

創世記46章1~34節

45章では、カナンの地で、息子たちの帰りを今か今かと待ちわびていた父ヤコブは、ついに喜びの知らせを受けることになりました。「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全土を支配しているのは彼です。」そんな息子たちの報告に、ヤコブは茫然として、はじめのうちは、彼らのことばが信じられませんでした。けれども、息子たちが入れ替わり立ち代わり、ヨセフが話したことを詳細に、残らず話して聞かせ、そして、ヨセフが父ヤコブを乗せるために送ってくれた車を見せると、父ヤコブは、ついに事の次第を理解し、元気づき、そして喜びの声をあげるのでした。「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう!」

この時のヤコブは、一刻も早くヨセフに会いたいという思いでいっぱいで、この移住がどれぐらいの長さになるかということまで考えが及ばなかったのではないかと思います。せいぜい飢饉が終わるまでの5年間、プラスアルファぐらいの年数を想像していたのではないでしょうか。「私は死ぬ前に彼に会いに行こう!」という言葉には、そんなニュアンスが受け取れます。けれども実は、ヤコブはエジプトで17年生きて147歳で死に、彼の子孫は、430年エジプトで過ごすことになります。

 ヤコブたち一行は、早速エジプトに向けて旅立ちます。そして途中、ベエルシェバまで来た時に、彼らは神に礼拝をささげます。ベエルシェバは、ヤコブにとって、特別な場所でした。ベエルシェバは「誓いの井戸」という意味ですが、神はこの場所で、ヤコブにとってのおじいさんアブラハムに現れ、お父さんイサクにも現れています。そして、この土地を与え、子孫を祝福するという約束の更新をいただいているのです。そして、ヤコブ自身もかつてはここに住んでいました。兄をだまして長子の権利を奪い、逃避行を余儀なくされたその出発点がこのベエルシェバだったのです。そして、この「ベエルシェバ」は約束の地カナンの最南端でした。ここを出ると、神の約束の地の外に出ることになります。このような理由から、ヤコブはここで立ち止まって、主のみこころを問うために、神に礼拝をささげることにしたのです。

彼が礼拝をささげ終わったその晩に、神はヤコブを呼びます。「ヤコブよ、ヤコブよ」するとヤコブは、反射的に答えます。「はい、ここにおります!」いい返事です。神の呼びかけに間髪を入れず応答する。それがアブラハムから始まる族長たちが受け継いでいるよい習慣でした。ヤコブの父も、祖父も、いつも神さまからの語りかけには、「はい、ここにおります」と答えてきました。子どもは、親の神に対する姿勢を見て育ちます。そういえば、預言者サムエルも、はじめて主の語りかけを聞いた幼少期に、その語りかけがどなたからなのか、どう答えればいいのかわからなかったのですが、師である祭司エリが、「おまえに語りかけているのは神さまだから、今度呼ばれたら、『はい、ここにおります。主よ、お語りください』と答えるように」と手ほどきしています。神さまのに召しに即座に応答する姿勢は、こうやって受け継がれ、教育されていくものなのかもしれません。

神は仰せられます。3-4節「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」

「エジプトに下ることを恐れるな」と神は語ります。ここでヤコブには恐れがあったことがわかります。何が不安だったのでしょうか。それは約束の地を離れることへの不安です。そういえば、祖父アブラハムも、やはりその地を襲った深刻な飢饉を理由にカナンの地を離れ、エジプトに移住したことがありましたが、それは主のみこころではありませんでした。にもかかわらず、神は彼らの命を守り、彼らの財産をかえって増やしたのです。

また、いつ帰って来られるのかわからない不安もありました。彼らはカナンの地では、寄留者で所有地を持っていたわけではありません。正確には小さな私有地がありました。一つは、シェケムの土地で、ヤコブ自身が生存中に自ら購入した唯一の土地です。後にこの場所には、エジプトから持ち帰られたヨセフの遺骨が埋葬されることになります(ヨシュア記24章32節)。そしてもう一つは、マクペラの洞窟(ヘブロン)です。祖父アブラハムが妻サラの墓地として正式に買い取った土地です。ヤコブ自身が買ったものではありませんが、一族の「共有の所有地」として受け継がれ、ヤコブ本人も遺言によってここに葬られました。しかしながら、神の約束の地と言いながら、そこでは寄留者であった彼らが、そこを長く離れることによって、もう戻れなってしまうのではないかという不安があったのです。

けれども、そんな不安の中にあるヤコブに、神は語られます。「このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。」ヤコブは、この神の語りかけを聞き、故郷を追われ、石を枕に横になった若かりし頃の夢を思い出したことでしょう。天から梯子が下りてきて、み使いたちがそこを上り下りしている夢です。その時神は彼に言いました。創世記28:13-15「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」 そうだった。神の約束は変わらない。安心して、今はこの地を離れよう。私がどこにいても、主は私とともにおられる。ヤコブはそう確信し、ベエルシェバを旅立つのでした。

 

エジプトが近づいて来きました。すると、ヤコブは4番目の息子、ユダを先にヨセフのところに遣わします。そして、ヨセフが示す地、彼らが後に住む地、ゴシェンへと彼らを導いたのです。ヨセフと父は、ゴシェンの地で再会します。29‐30節「ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。『もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。』」

そういえば、ヤコブはヨセフを失ったときに「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」と死を願ったのですが、今、彼はヨセフとの再会を喜び、別の意味で「もう死んでもよい」と言うのでした。二人は抱き合い、いつまでも泣き続けました。ヤコブは、エジプトで17年生きます。そして、ベエルシェバで主が語られたとおりに、愛するヨセフに看取られ、147歳の生涯を閉じるのでした。

 

さて、感動の父との再会を遂げたヨセフは、兄たちの方に向き直って、今後の彼らの動きについて話し始めます。冷静沈着なエジプトの最高権力者の顔です。ヨセフは、家族をゴシェンの地に住まわせようとしていました。エジプト市街からは離れたゴシェンは牧羊にはぴったりの肥沃な牧草地でした。彼らはもともと牧羊を生業としていましたから、この地が最も適しているということが、その理由の一つですが、ヨセフにはもう一つ、懸念事項がありました。それは、イスラエル民族が、エジプトの文化や宗教の影響を受け、彼らのアイデンティティを失ってしまうことです。彼らは、天地万物を創造し、今も生きて働かれる真の神さまを信じていました。ですから、エジプトの好待遇を受けつつも、距離をとる道を模索したのです。幸い?エジプト人は、羊を飼う者を忌み嫌っていたと34節にあります。ですから、これを利用し、エジプトの王ファラオの気分を害することなく、上手に距離をとろうとはかったのです。こうして、ヤコブたち一族は、エジプト王ファラオに会う準備を整えました。

 

今日は、ヤコブが神さまの約束の地カナンを離れ、エジプトに向かうときに、恐れを覚えていた様子を見ました。彼は、ここで自分たちが進むべき道について、主のみこころを求めたのです。

私たちも、人生の節々で主のみこころを求めます。大きなところでは、進学、結婚、就職などがあり、クリスチャンならば、この進路選択は主のみこころか、この人と結婚するのは主のみここかなどと考えることでしょう。また、それだけでなく、私たちの毎日の生活の中でも、ふと立ち止まり、これは主のみこころか否かと考えることがあると思います。そして、時に主のみこころがわからなくて悩むこともあります。

聖書全体を見ると、神さまのみこころを知るには2つのことを基準にするといいと思います。一つは、神さまがお嫌いになる道、罪を除外するということです。そしてもう一つは、それを通して、神の栄光が現れ、霊的成長につながるかということです。私たちが主のみこころについて迷ったときには、この二つを考えましょう。

けれども、それでも神さまのみこころは、具体的には私たちにはわからないことが多いです。本当にまれに、神さまは、わかりやすくみこころを教えてくださることもあるのですが、ほとんどのときは、主のみこころがわからなくて、そこで私たちはいつまでも足踏みしてしまうのです。

神さまは私たちの思いや願いを尊重してくださるお方なので、多くの場合は私たちに決断を任されます。よく祈って、主のみこころを思いめぐらし、考え、そして自分で決断するように、主は促しておられます。そして主は、私たちが主のみこころを求めつつ決めた道を応援してくださるのです。もちろん、私たちは決断を誤ることがあります。それによって、失敗したり、自分が傷ついたり、人を傷つけたり、無駄に思えるような時を過ごしたり、遠回りしたりすることもあるのです。けれども、安心してください。主がともにおられるのであれば、私たちは主のみこころの中にいます。そして、最終的には主のみこころの道に導かれます。

主はヤコブに言われました。「このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る」 二回も「このわたしが」「このわたしが」と、主は繰り返します。この主ご自身が、私たちとともにおられるなら、私たちは、主のみこころのうちを歩んでいて、主は私たちの歩みを祝福し、その力強い御腕をもって私たちを導いてくださるのです。 ヤコブの人生は順風満帆だったかと言えば、決してそうではないでしょう。波乱万丈の人生でした。けれども、主はいつも彼とともにおられ、彼の欠けや失敗さえも用いて、彼を通して主のみここを成し遂げ、彼を通してご自身の栄光をあらわしてきたのです。主がともにおられる道、それがみこころの道です。お祈りしましょう。

 

天の父なる神さま、御名を賛美します。エジプトに旅立つときのヤコブは、ヨセフに一刻も早く会いたいという思いと同時に、エジプトへの移住が、本当に主のみこころかどうか、不安になり、恐れを覚えたことでした。そんなヤコブに、主は「恐れるな!」と語り、「このわたしが!」「このわたしが!あなたとともに行く!」と励ましてくれました。あなたとともに生きること。それが主のみこころです。今週も主と共に生きることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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