スキップしてメイン コンテンツに移動

柔和な者の幸い(マタイの福音書5章1~5節)

 


「柔和な者の幸い」(マタイ5:1-5)

はじめに

 5節「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

 この5節の意味するところ、それは「柔和な者」は神に祝福される、ということです。ただし、祝福はすぐに訪れるわけではないのです。 祝福の内容は「地を受け継ぐ」と表現されます。ところで、ここで言う「地」とは何でしょう。将来の完成した神の国である、という理解があります。その一方、ある聖書の注解者は将来だけでなく、この地上の生涯でも報いを受けるのだ、と言います。

どちらなのかは、私も決めきれていません。いずれにせよ「地を受け継ぐ」という神の祝福は、すぐに訪れるものではないらしい。これは将来の約束です。

 

1.   「柔和」とは

 今朝皆さんと考えたいのは、「柔和」とは何か、ということです。皆さんは、「柔和な者」と聞いてどのような人を思い浮かべますか。おそらく、「穏やかな人」あるいは「優しい人」をイメージすることが多いと思います。

 けれども注意が必要です。私たちが普段用いる「柔和」の意味と、聖書における「柔和」の意味は少し違う。聖書における「柔和」は、人との関わり方を表す言葉です。その人が、周りの人とどのように関わっているか。その人間関係を見て、「ああ、あの人は柔和だ」と分かる。でも、ここで要注意です。ただ人との関わり方が穏やかであることが、聖書における「柔和」ではないのです。聖書の言う柔和、そしてイエスさまが用いた「柔和」には優しさだけでなく、勇気と力も備わっています。このあたりに日本語のニュアンスと違いがあるかもしれません。イエスさまの言う「柔和な者」は、単に周囲に優しいだけではない。その内側には勇気も力もある。ただし、その勇気や力を、決して自分を誇示したりはしない。それがイエスさまの言う「柔和な者」です。

 自分の力を誇示して、人の優位に立とうとすること。それを最近は「マウントを取る」という言い方をするようです。周りの人に対し、自分が優れていることを示して優位に立つと、「マウントを取った」と言うわけです。柔和な人はそんなことは決してしない。柔和な人は自分の勇気や力を使って人を抑圧したりしないのです。いや、しないどころか、むしろ「どうぞ、どうぞ」と人に譲っていくのです。本当は力があるのに、それをひけらかすことをしない。これがイエスさまの言われた「柔和な者」です。

こういう人は、おそらく世の中では出世しないのではありませんか。出世しないどころか、貧乏クジを引くことも多いと思う。力があってもそれを示さず、穏やかに人に譲っていくのですから。それだけではありません。柔和な者は、たとえ人から嫌な扱いを受けても、自分だけに関することならおそらく忍耐するのです。

 こうした聖書における「柔和」のニュアンスゆえに、ある聖書の学者は、マタイ5章5節をこう訳しています。なかなか衝撃的な訳です。「ああ幸いだ。踏みつけられて、じっと我慢している人たち。地を相続するのは、その人たちだから(繰り返し)」。これは少し訳しすぎじゃないかと、実はこの学者のお弟子さんは、もう少しマイルドに訳しました。「幸いなのは、くだかれた人々(繰り返し)」。

 「踏みつけられて、じっと我慢している人たち」か、あるいは「くだかれた人々」か。いずれにせよ、イエスさまの言われた「柔和な者」は、間違いなくこの世では苦労しながら生きていく人です。貧乏くじを引くこともあるし、世間的にもおそらく出世しないでしょう。でも、それを良しとして受け止めている。それが幸いな生き方だとイエスさまは言うのです。

 

2.   詩篇三十七篇

 そうした柔和に生きようとする信仰者の姿を、見事に歌っている詩篇があります。旧約聖書には、信仰者の歌った詩を集めた詩集、「詩篇」と呼ばれる書物があります。その中に、柔和な者の生き方を歌にした詩篇がある。三十七篇です。今日はその一部に皆さんと一緒に目を留めたいのです。

 可能な方はぜひお開きください。詩篇三十七篇。新改訳の968頁です。

 

 この詩を歌う詩人は、間違いなく、柔和な生き方を目指しています。

1節「悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな」。

 詩人の周囲には、悪を行う者がいるのです。しかも、思わず腹を立てたくなることをして、詩人の心を騒がせているのです。それで詩人は自分に言い聞かせるかのように語るのです。「悪を行う者に腹を立てるな」と。むしろ主なる神を見上げよと、詩人は言葉を続けます。

 

3-4節 「主に信頼し 善を行え。地に住み 誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」。

 そうです。人を見るのではなく、主なる神を見上げて日々を誠実に生きよ。そうすれば、たとえ自分の力をふるわずとも、主が願いをかなえてくださる。これに5節が続きます。

 

5節「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。

 詩人は一貫して、自分の力を振るわず自制を効かせるように訴えます。7節もそうですね。「主の前に静まり 耐え忍んで主を待て」。詩人は一貫しています。自分の力を振るうのではなく、主に信頼して祈る者であれ。この流れの中で、注目すべき11節がくるのです。

 

11節「しかし 柔和な者は地を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする」(繰り返し)。

 詩人は一貫して訴える。人は自分の力を振るっても幸せは掴めない。大事なのは、神に信頼して誠実に生きること。悪は、神が必ず裁いてくださる、と。ここから飛んで最後に34節に目を留めましょう。「主を待ち望め。主の道を守れ。主はあなたを高く上げ 地を受け継がせてくださる。あなたは悪しき者どもが断ち切られるのを見る」。

 

 柔和な者は、力があるのにもかかわらず、どうしてそれを振るわずに自制できるのか。それは、神を信頼し、将来も含めてすべてを委ねているからです。将来は神の手の中にある。だから、肩から力を抜いて生きたらいい。肩から力が抜けると人間関係も自由です。人との競争や勝ち負けにとらわれることもない。こういう人をイエスさまは、「柔和な者」と呼びます。柔和な者は、神への信頼を土台にして、成熟した人間関係を築いていくのです。

 

3.   心が柔和でへりくだっているから…

 聖書における「柔和」な生き方をイメージできましたか。私も詩篇37篇を通して、そのイメージが見えてきました。でも、その中で、ふと思ったのです。聖書が教えるような「柔和」な生き方ができる人が果たしているのだろうか、と。

 どうでしょう。表面上、柔和に見える人はいるかもしれない。でも、聖書が教える柔和を生きることは、とても難しいのです。ある聖書の注解者が、その人が柔和かどうかを見分ける「リトマス試」、一つのテストを提案していました。とても興味深いものです。それは、誰かに自分の罪や問題を指摘されたときに穏やかでいられるかどうか。

 聖書は、すべての人が神の前には「罪人」なのだと教えます。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることが」できない、という有名な言葉がありますね。聖書は何も、全ての人が犯罪者だ、と言っているわけではないのです。聖書の言う「罪」とは、人間の自己中心性です。人は皆、実は自分に都合良く物事を考えている。それが聖書の言う「罪」の本質です。こうした「罪」を自分で認めるのは、実は意外と容易い。私たちは誰でも、生きていると自分の醜さや自己中心性を感じることがありますから、それを自分で認めるのは、実は容易い。誰でも心に良心があるからです。でも、これを他人から指摘されたらどうか。これがリトマス紙だと言うのです。聖書が教える柔和は人間関係に現れます。私は咄嗟に「自分は失格だ」と思いました。先週、ある会合で、人の発言にイライラしたのです(内緒ですよ)。私は懸命に祈って、ようやく自分を制したのです。そのとき痛いほど感じた。私は「柔和な者」ではないと。聖書が教える柔和は人間関係に現れます。

果たして私たちの周囲に、聖書が教えるような「柔和な人」がいるでしょうか。正直、おそらく、いないのではないか…。

 そんなとき私はあるお方の生き方を思い出したのです。お分かりでしょう。イエス・キリストです。主イエスの生き方を物語った、有名な旧約聖書の言葉があります。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」。  イエスさまには罪が無いので、もとより人から後ろ指を指される理由など一切無かった。それでも宗教指導者たちの妬みを買い、誹謗中傷されて十字架に死んだのでした。しかし主イエスは、そうした蔑みや嘲りを、ただ黙々と耐えるのです。十字架の死刑判決を下した裁判官ピラトの驚きが聖書に記されています。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか」とピラトは問う。それでもイエスは一言も弁明しなかった。主イエスは敢えて貧乏くじを引いたのです。そうやって私たち人間の罪と悲惨を身代わりに背負ったのでした。「マウントを取る」のとは正反対の生き方です。

 このキリストが、十字架を目指してエルサレムに入城するときの様子が、聖書にこう書かれています。「見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って」。印象深い言葉です。キリストは王であられるのに、自分を誇示する馬には乗らず、小さなろばで入城する。その様子を聖書は「柔和な方」と表現しました。なぜ柔和を貫いたのか。力を振るおうとすれば出来たのに、なぜそれをしないのか。イエスさまの次の祈りがすべてを物語っています。 自分を十字架につけて罵る人々のために主イエスは神に祈る。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていない」のです。貧乏くじを引く生き方です。すべては人を救うため。自分を十字架にかける人々さえ救われるようにと、キリストはすべてを耐えて、「柔和」を貫いた。

 イエスさまは、こうして十字架に死にました。しかし、それは死では終わらなかった。  三日目に死に打ち勝って復活し、世界の王となって天に昇られたのでした。天に昇る前に言われた次の言葉が印象的です。「わたしには天においても、地においても、すべての権威が与えられています」。十字架の後に復活したキリストは、天地における権威を持つ、まことの王となり、天に帰っていく。柔和なイエスは、最後にこのようにして勝利するのです。

 

結び

 柔和な生き方、それはキリストの生き方です。  私たちは、キリストが示したような本当の柔和を生きることはできません。 でも、望みがあるのです。キリストを信じ、キリストとともに生きるならば、少しずつ、キリストに似た者へと成熟していく希望があるのです。イエスさまご自身がそう言われました。マタイ11章29節「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」。 キリストから学ぶならば、揺るがぬ安らぎを心に得る。これは柔和な心を得る、という約束です。

 岩手県花巻の詩人、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」をご存じでしょう。

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」。その結びはこうです。「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」。 「ナリタイ」とあるように、これは宮沢賢治自身ではないのです。一人のモデルがいます。斎藤宗次郎というキリスト者であったと言われます。

 宗次郎は明治時代の人で小学校の教員でした。キリスト教伝道者の内村鑑三を通して信仰を持ち、その影響で日露戦争に反対するのです。反対の仕方が凄まじかった。正論をかざして刃物のように人を批判し続けた。それゆえに恩師の内村が諭すのです。「あなたの生き方は、キリストの生き方ではない。キリストのように生き、キリストのように人を愛しなさい」と。

 戦争批判が原因で宗次郎は小学校をクビになります。そして十七年にわたって新聞配達をしながら生計を立てました。彼は一風変わった新聞配達人でした。配達の途中、立ち止まっては祈り、賛美を捧げて配ったそうです。配達先に病気の人があれば枕元で励まし、貧しい子どもたちにはお菓子を配る。雪の日には学校に行く子どもたちをおぶって学校に連れていく。そんな姿が愚かに見えて、最初は人々に笑われたそうです。しかし、宗次郎は生き方を変えない。その間、宮沢賢治とも親しくなり、共にレコード鑑賞をするような友人になったそうです。

 やがて宗次郎は、内村鑑三を助けて伝道者となるべく上京します。出立の朝、花巻の駅には町長を含めた約二百名が集まったとか。宮沢賢治は、宗次郎を生涯心に留め続けたのでしょう。「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」。自ずと、宗次郎の生き方と重なってくるのです。

 主イエスは言われます。「わたしから学びなさい」。学ぶならば、心に安らぎを得て人は変えられていく。柔和な生き方は、人には評価されないかもしれない。しかし、最後に神が必ず祝福を与える。人と相争う、マウントを取る生き方ではなく、心穏やかに柔和に生きていきたい。イエスさま、私を、私たちを教えてください、と祈らされた今朝の御言葉の学びでした。お祈りします。

 

天の父よ、感謝します。主に信頼し誠実を養わせてください。聖霊が私たちの信仰を支え、キリストに似た者へと成熟させてください。柔和な王キリスト・イエスのお名前によって祈ります。アーメン。



コメント

このブログの人気の投稿

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...

父よ彼らをおゆるしください(出エジプト記32章30~35節)

説教題「父よ、彼らをお赦しください」  聖書箇所 出エジプト32章30節~35節  おはようございます。今日は「TCU Day・神学校を覚えて祈る日」です。いつも東京基督教大学と神学生たちを覚えてお祈りして下さりありがとうございます。本日はそれにともないキリスト者にとって祈り、その中でもとりなしの祈りについて共に考えてまいりたいと思います。 お祈り 恵み深い天の父なる神さま。本日も私たちを主の御前に集めて下さり感謝いたします。これからみことばを聞きます。主が私たちのこころに語って下さい。みことばを取り次ぐこの者も神への恐れと兄弟姉妹への愛を持って語れますようにこの唇をきよめ用いて下さい。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。 祈りについて  祈りって本当にいいものですよね。一人静かなところで祈る祈りは神さまとの距離をグッと近くに感じますし、ともに祈る祈りは兄弟姉妹との交わりにもなります。また、目に見えないけれど祈りは必ず天につまれていますし、祈りはキリスト者にとって神の御業に共に与れる素晴らしい働きの一つですね。  この祈りについて、カルヴァンという昔の教会の偉い人は祈りを「神との対話である 」と言いました。また、『ナルニア国物語』を書いた作家のCS.ルイスは、「祈りは神の御心を知り行うためのもの  」と記しました。最後に貧困や病に苦しむ人々の救いに生涯をささげたカトリックの修道女マザー・テレサは「祈りは信仰を深めます。信仰から愛が生まれ、愛からは奉仕が生まれるのです」と祈りが愛の行動を生み出すことを教えてくれました。  このように祈りには多種多様な理解と、神と私たちとの関係において沢山の良いことを生み出す力が存在します。  また、新船橋キリスト教会にも、それぞれが大切にしている祈りの場所、祈りのスタイルがあることだと思います。その中で私たち神学生も水曜日の夜は牧師夫婦のご自宅に集まって新船橋キリスト教会を覚えて祈りをささげてきました。そこでは祈りだけでなく、みことばの学びや近況の分かち合いなど、お茶とお菓子も提供されて、豊かな交わりの時を持たせて頂いています。 とりなしについて これらの祈りの中で、今日共に考えていきたいのが「とりなしの祈り」についてです。「とりなし」とは、聖書では「神に対して罪を犯し、神と敵対している人...

私は主をほめたたえよう(創世記29:31~30:24)

「私は主をほめたたえる」 創世記 29 章 31 ~ 30 章 24 節 創世記をずっと学んでいますが、今日の個所は、思わず目を覆いたくなるようなストーリーが展開されています。二人の姉妹が一人の夫に嫁ぎ、一人は愛され、一人は嫌われ…。ところが嫌われている妻が次々と子を産み、愛されている妻には一向に子どもが与えられない。渦巻く嫉妬の嵐と駆け引き、もはや修羅場と言ってもいいような悲惨な状況です。日本の昼ドラでもこれほどの愛憎劇は見られないでしょう。 彼らはどこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか。それはやはり、ヤコブが姉妹二人を娶ったこと、その決断をしたことに問題があったと思うのです。ヤコブは、ラケルと結婚したくて、7年ものきつい労働に耐えたのですが、結婚初夜に寝室に送られてきたのは、姉のレアでした。翌朝、レアとラケルの父ラバンに騙されたと知ったヤコブは、ラバンに抗議するのですが、ラバンは、しれっと「姉より妹を先に嫁がせることはしないのだ。ラケルもほしければ、さらに7年働くように」と言うのです。ヤコブは、ラケルをあきらめきれず、その 残酷な 提案を飲むのです。誰に対して残酷なのでしょう。レアに対して、そしてラケルに対してです。そしてその結果が、今日見るこの家庭の修羅場です。 ヤコブはどうすればよかったのでしょうか。私は、彼はラケルをあきらめるべきだったと思います。そして、レアだけと結婚し、7年でハランを引き上げ、故郷に帰るべきだったのです。アブラハムへの祝福の契約は、サラを通して、その子イサクに引き継がれ、イサクとリベカによって、ヤコブに引き継がれました。今、神はレアを選んで、レアを通して祝福を継承しようとしているのだと、ヤコブは悟り、自分の好みではなかったとしてもレアとの結婚生活を大切に育めばよかったのです。そもそもヤコブはなぜラケルに固執したのでしょうか。ラケルが美しかった、それだけです。それだけとは言っても、男性にとっては重大なことなのでしょう。一般的に言われるのは、女性は好きという感情がない相手でも、誠実で尊敬できる相手であれば、結婚の対象として考えられるのですが、男性は、女性としての魅力が感じられないと結婚は考えられないのだそうです。けれども、そもそも結婚は、自分が幸せになるためにするのでしょうか。そうではなく、相手を幸せにするために結婚す...