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破れ口に立つ者として(エゼキエル書22章30節、Ⅱコリント人への手紙1章4~5節)

 


2026年11月1日 新船橋キリスト教会 

TCUデー 礼拝メッセージ

エゼキエル書 22章30節、Ⅱコリント1章4-5節

「破れ口に立つ者として」

○アウトライン

  1. 私たちの身近にある「破れ口」
    ・城壁の破れ口と、エゼキエル時代のイスラエルの堕落(バビロン捕囚)
    ・社会やTCU、そして教会の内側に広がる「破れ口」。
  2. 「破れ口」に立たれたキリスト
    ・自分自身の内側にある「罪」という破れ口

・「破れ口に立つ者」として来てくださった主イエス・キリスト

・十字架によって、私たちの「破れ口」を完全に修復してくださった

・キリストの愛と十字架の恵みによって新しく造り変えられていく

  1. 破れ口に立つ者として
    ・星新一『平和の神』。「破れ口」に立つことの苦難と労苦

・自分の頑張りではなく、キリストの愛と「慰め」に支えられる

・傷ついた者だからこそ「破れ口」立つことができる(Ⅱコリ1:4-5)

【結び】

・未来の宣教を担うTCU。ぜひTCUのためにお祈りください。

・すべての場所にキリストがともにいてくださる確信

・唯一の慰めである主とともに遣わされた場所へ力強く歩み出す

 

 


○導入

おはようございます。この朝もこうして新船橋キリスト教会の皆さんと一緒に、主を見上げて礼拝ができる恵みに感謝をしています。

本日はTCUデーとなっていますけれども、大学に関わる各地の教会にTCUの教職員の先生方が派遣されて、様々な奉仕をなさっているようです。そのような中で、学生の私が奉仕をさせていただくのは恐縮ですけれども、皆さんには、ぜひ「TCU生の生の声を聞ける」という「恵み」として受け取っていただけましたら、嬉しく思います。

さて、TCUでは平日のお昼にチャペルの時間が持たれています。そしてそこでは、毎年、最終学年を迎えた学生たちがメッセージを担当する「卒業チャペル」という礼拝が行われています。学生たちが、TCU生活で与えられた様々な恵みを、証しや説教などを通して語ります。個性豊かなメッセージに、本当に毎回励まされ、みことばに養われる、素晴らしい時間です。

一方で、これは語る側になると、独特の難しさがあるのです。TCUが学び舎でありながら、生活の場でもあり、良いも悪いも、酢いも甘いも知っているからでしょうか。話したいこと、伝えたいことがたくさん出てくるのですが、それをたった10分で語らなければならないのです。私も、9月にメッセージの担当の日がありましたが、もう夏の前から何を話そうかとうんうん唸って、考えていました。

そして、その準備の中で語りなさいと示されたのが、今回のエゼキエル書22章30節のみことばでした。このみことばは、TCUが養成する人物像として掲げているスローガン、「Stand in the gap 破れ口にキリストの平和を」この背景にある聖句です。そして、同時にこのスローガンは、私が4年間のTCUの歩みの中で、いつも頭の片隅に置かれ、向き合わされてきた言葉でした。それはTCU生活のなかで、ことあるごとに、その難しさに直面していたからです。そして、私が卒業して社会に遣わされる時、「私は果たして、破れ口に立つ者となれているだろうか」と、思っていたからです。

TCUを覚えて祈るこの日、新船橋の教会の皆さんにも、ぜひこのみことばに、ともに耳を傾けて参りたいと思います。そして「破れ口に立つこと」というのは、TCUだけでなくどの場所においても、私たちキリスト者が向き合うべき使命であることを思い起こしたいと思います。

 

○展開

①      私たちの身近にある「破れ口」

さて、聖書における「破れ口」というのは、「都市を囲う城壁に開けられた大きな穴」を指す言葉です。古代オリエントでは、都市の防御のために、その周りを高い城壁が囲っていました。そして、外敵が都市を襲撃する時には、まずその城壁が破られます。城壁を破るためには「城壁くずし」という大きな振り子のようなマシーンが使われたようです。鉄球を何度も城壁に打ち付け、積み上げられた石を破壊します。これによって開けられた大きな穴から敵の軍隊が攻め入り、その都市に滅びを招く。そのため、開けられた「破れ口」には、敵の侵入を防ぐために「戦う者たち」が立つ必要がありました。このような状況から、聖書ではこの「破れ口」という言葉を、実際の戦いの事柄だけでなく、神さまや人との関係における様々な「断絶」や「隔たり」という、霊的な事柄を示す意味としても用いられています。

今回お読みしたエゼキエル書は、南ユダ王国に残された神の民が、神を求めなくなって、すっかり堕落していた時代に語られた預言です。当時、国はバビロンという大国に攻め込まれ、国のリーダーたちが遠い異国の地に連れ去られた「バビロン捕囚」が起こりました。神さまは、イスラエルの民が神のもとに立ち返るように何度も警告を与えておられました。しかし、民は、なおも神さまに対して背きを重ねていたのです。22章の23節から30節は、その民の堕落の様子を明確に描いています。預言者たちは陰謀を企て、神に仕える祭司たちは高慢になり、国のリーダーたちは欲に目が眩んでいた。一般の民衆もお互いに虐げ合うような、そんな悲惨な状況だったのです。すべての人々が「自己中心」に流され、国全体の「神にある秩序」は、全く崩壊していました。

30節で神さまは、このような状態のイスラエルを「破れ口」として、次のように語ります。

この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。

神さまに背き、霊的にも道徳的にも堕落する民を前にして、神さまは「破れ口に立つ者」、神さまの声に聞き従い、人々を正しく導く者を探し求めました。

しかし、そのような者は民のうちに見つからなかったのです。

 

自己中心の罪に流されて、神の秩序から遠ざかっていく世界。その状態は、今の時代も重なってきます。戦争や紛争、貧困などの様々な社会問題は止むことがありません。自国の利益を求めた武力による衝突は、これからさらに広がっていくように思います。

このような社会の「破れ口」は、私たちのずっと身近にも潜んでいます。私は、6年間の公立中学校の教員としての働きの中でも、家庭とそこから広がる社会の、数々の「破れ口」を見たと思っています。皆さんもそれぞれのお働きと生活のなかで、必ず何か「破れ口」に触れてきたのではないでしょうか。TCUは、そのような社会の「破れ口に立つ」人材を育てる。そのことを掲げて神学教育に励んでいます。私たち学生は、この学び舎で本当に多くを学び、外の世界に遣わされる備えをしています。

 

しかし、学生たちはTCUで学び、生活をするなかで、あることに気づき始めるのです。それは「破れ口」が、決して外の社会だけにあるのではなく、「TCUの内側にもある」ということです。ともに学び、ともに生活をする中で、仲間との関係性の難しさを覚えます。学びや奉仕における比較によって誰かを妬んだり、すれ違いが起こったりして、関係がこじれることがあります。他者の愚かさをさばく自分に向き合い、自分自身に失望する。神学生という肩書きを背負い、理想を追いかける分だけ、その理想に押しつぶされそうになる学生たちもいます。私は、TCUの中でも数々の「破れ」を見ました。「TCUはクリスチャンが集まる素敵な大学です」。確かにその通りです。しかし、同時に「社会と同じように破れ口が広がる大学」でもある。私は、そのように思うのです。

そして、この「破れ口」の存在は「教会」も同じなのではないかと思うのです。奉仕の負担が誰かに偏って、「どうしてあの人は…」と妬みや不満が芽生えてしまう。長年大事にしてきたことがあっけなく変えられてしまい、「どうしても受け入れられない」と、頑なになってしまう。「兄弟姉妹を愛したい」と思いながら、その人を目の前にするとどこからか冷たい思いや避けたい思いが湧き上がってしまう。神の愛に満たされたキリスト者が集まる教会でありながら、そこに「破れ口」が広がることは少なくありません。

 

②      「破れ口」に立たれたキリスト

このような「破れ口」はどこから来るのか。それを一つひとつ辿っていくと、それが自分自身の内側から生み出されていることに気づきます。他者との比較によって生まれる妬みは、誰かを排除する力を生んでしまいます。自分が正しいと思う時、相手が誤りを認めるまで、耳を傾けることもできなくなってしまいます。自分の基準で善悪を判断して、誰かを遠ざけてしまうことがあります。感じている不当は正しいのかもしれません。しかし、自分の基準で人さばき、自分が正しいと思うこと。その人との距離を作り、関わりをやめること。大切にできなくなり、愛さなくなること。それは自分たちにある自己中心の「罪」という「破れ口」ではないかと思うのです。そこから、さまざまな誘惑が入り込み、自分の思いが入り込み、「隣人を愛する心」を壊していってしまう。私たちは決して破れ口のない、きよい存在ではなかったのです。私は、そんな自分の姿に直面する時、「こんな自分が、破れ口に立つ者としてふさわしいのだろうか」。そのように思わされるのです。

 

しかし、22章30節のみことばを読む時、私はむしろそこに、福音を見るのです。イスラエルの民の間に「破れ口に立つ」ものが見出せなかった神さまは、神さまご自身が「破れ口に立つ」者として、この地に来られました。それこそ、私たちの主イエス・キリストです。私たちの「罪」という破れ口に、キリストが来てくださった。十字架の身代わりの死によって、私たちの罪による「破れ口」を完全に修復してくださった。そして、今、私たちは神の子どもとされているのです。

私たちは信仰生活の中で、なおも弱さや失敗という自分の内側にある「罪」に直面します。人間関係でつまずき、誰かを傷つけてしまう時、「自分の破れ口は修復されているのだろうか」と思います。しかし、そんな私たちのところにこそ、キリストは確かに立ってくださるのです。神さまとの間にあった罪による深い断絶、滅びに向かうはずだった私たちのところに、キリストは立って、神さまとの関係を、そこにあった「破れ口」を完全に回復してくださったのです。

私たちは自分の力で完璧になるのではありません。なおも弱さを抱え続けるなかにあっても、キリストの十字架によって完全に赦され、救われているのです。そして、キリストご自身がその十字架で愛を示してくださったから、私たちは日々、キリストの似姿へと新しく作り変えられていくのです。私たちにある「破れ口」は、キリストが歩まれた十字架の道を、キリストとともに歩む中で、本当に修復されていくのです。

私たちは、自分の罪や弱さに絶望して、諦めてしまう必要はありません。十字架という圧倒的な愛と慰めを受け取っているからです。私たちはその愛と慰めに支えられながら、今度は私たちが、キリストにならって「破れ口に立つ者」として、社会の「破れ口」に遣わされていくのです。これは、私たちに与えられた恵みであり、十字架の道を歩むという使命だと思うのです。

 

③      破れ口に立つ者として

SF小説家の星新一さんをご存知でしょうか。星新一さんが書かれた『平和の神』という短編を少しご紹介したいと思います。

それは、ある男が天使に連れられて天界を見学するという話です。男は、天界でいろいろな神を見ます。年老いた海をつかさどる神。少し若めの船の神。そして、まだ生まれたての通信衛星をつかさどる天使。

男はその中で、こわい顔つきの神がいるのに気づきます。動作も乱暴で、服には血しぶきの跡があり、硝煙の匂いが染み付いています。男は、それが戦いの神なのだと思いました。ふと、別の方にちょうど対照的な神がいるのを見つけます。控え目な動作、和やかな顔つきでじっとしています。男はこれが平和の神だと思いました。そして男は平和の神が怠けていることに怒りを覚え、訴えようとします。しかし、男を連れた天使によると、実はそれが戦争の神であったことがわかりました。人間たちがあまりに無茶で、神の力でもどうしようもなく、戦争が起こってしまう、ということだったのです。そして、男は気づきます。さっきのこわい顔つきで、汚れた服の乱暴な神。それが平和の神でした。平和の神は、世界中で起こる様々な戦争を止めるために、ボロボロになりながら働き回っていた。そのことに男は背筋が寒くなる思いをする。そのような話です。

もちろん、この話は、私たちの信じている聖書の世界観とは異なる話です。けれども、ここから「破れ口に立つ」とはどのようなことなのかが、少し具体的にわかる気がします。

私たちはキリスト者として生きる時、いつも元気で、疲れず、苦労なく、エネルギッシュで、魅力的な人物をイメージするかもしれません。しかし実際には、私たちはそういうことにはならないのかもしれないのです。「破れ口」に立って平和のために戦う時、私たちは、疲れ、苦しみ、悲しみ、傷つき、時には病になることがあるかもしれない。いや、そうなるのでしょう。なぜなら、キリストご自身が、私たちの罪によって十字架でボロボロになられたのですから。私たちもキリストの十字架の道を歩むとき、そこには多くの苦難と労苦があるのです。

私たちはそれを恐れて「破れ口」から目を逸らしてしまうかもしれません。自分に精一杯な時があり、自分が傷つくことを恐れてしまうからです。そこには、私たちには担い切れない多くの困難と労苦があるからです。

しかし、キリストはその労苦を十分に満たすだけの「慰め」もまた注いでくださることを覚えたいのです。

Ⅱコリント1章4-5節。

4神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

5私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。

 

私たちは、自分に破れがあるから、破れ口に気づくことができる。破れに傷ついた者だから、破れ口に立つことができる。破れから癒やされた者だから、破れ口にとどまることができるのです。私たちはキリストによって、「破れ口に立つ」ことの勇気が与えられます。私とともにおられるキリストが、私とともに立ってくださるなら、私たちはそこに立ち続けることができるからです。ともにおられる神さまが注ぎ出してくださる「キリストの平和」に期待して、私たちは破れ口に立ち続けたいと思うのです。

 

○結び

「Stand in the Gap 破れ口にキリストの平和を」。TCUが養成する人物像。世界中が今、必要としている、大変重要なスローガンだと思います。そこでTCU生たちは、社会に遣わされる備えの訓練として、学び舎の内側にあり、また自分自身の内側にある「破れ口」と日々、格闘しています。ぜひ、未来の日本宣教、世界宣教を担う「破れ口に立つ者」を輩出するTCUを、祈りに覚えていただきたいと思います。今ある学びが神様の御手の中で守られて、みこころのままに用いられていくように。この学び舎が、神さまの必要に答えていけるように、ぜひお祈りくさい。

そして、「破れ口に立つ者」が養われるのは、もちろんTCUだけではありません。教会においても、みことばと祈り、交わりを通して、神さまは私たちを「破れ口に立つ者」として養ってくださっています。

実際、社会の厳しさは学校と比較になりません。役割を担い、責任を負い、時間に追われ、疲れ切ってしまいます。そのような中でキリスト者として生きることの何と難しいことでしょうか。弱さや傷に寄り添い、派閥や軋轢の間に立ち続けることの何と難しいことでしょうか。キリストの愛を知り、あわれみを知り、恵みを知っていたとしても、そう生きることの難しさがあります。いや、いっそ信じない方が楽だった、そのように思うこともあるかもしれません。

しかし、私たちはその「破れ口」に一人で立っているのではありません。私たちが遣わされているすべてのところに、キリストがともにいてくださっています。私たちが遣わされるその背後に、ともに破れ口に立つ兄弟姉妹の祈りがあります。そして、TCU、教会、地域、学校、会社、家庭、そのすべてに主の慰めがいつも注がれているのです。すでに私たちの破れ口に立ってくださったキリストがおられるからこそ、私たちは「破れ口に立つ者」としての一歩を踏み出すことができるのです。私に注がれた神さまの愛が、私の隣人にも注がれていると確信しているからこそ、弱さや疲れを覚えている人に手を差し伸べることができるのです。

みなさんの近くにある「破れ口」は何でしょうか。あなたが今、立つことができる「破れ口」はどこでしょうか。そこで、あなたは何ができるでしょうか。私たちは、このことを問いながら、遣わされた場所に歩み出し、そして立ち続けていきたいと思います。生きるにも死ぬにも唯一の慰めである主が、今週も私たちとともにおられることに期待をして、力強く歩みを進めて参りましょう。


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