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「神の選びの不思議」(創世記11:10~32)

「神の選びの不思議」 創世記 11 : 10 ~ 32 先回、「バベルの塔」のところからおはなしをしてから3週間が空きました。今日は11章のバベルの塔の記事の後からの説教になります。 実はこの11章は、創世記全体を見ると、大きな区切りになる個所です。私たちは創世記1章から丁寧に読み進めてきましたが、今までは、世界の初め、人類の初めの歴史が描かれていました。創世記1~2章は、神が造られたすばらしい世界と神のかたちに造られ、神の御寵愛を一身に受けた人間の姿が描かれました。そして3章以降は、神の言いつけに背き、神に背を向けて生き始めた人間の罪と悲惨の歴史が綴られました。そして人の罪が際限なく増大する様子を見られた神は、一度区切りをつけるために、大洪水によって地を滅ぼすことにしたのです。けれども、ノアとノアの一族を神は選ばれ、救いの道を残されました。こうして洪水によって一度リセットされた人類は、今度こそ、神の前に清く正しく生きるかと思いきや、再び、アダムとエバの罪、神より知恵ある者となろうという高慢に陥り、バベルの塔を建て、神はそれを、言語を通じなくするという方法をもってやめさせたのでした。こうして人類は、同じ言語を使う者たち、氏族が集まって住み、それぞれの国を形成するようになったのです。 そんな中でも神の救いの道は、途切れることなく続いていました。創世記5章には、アダムからノアに至るまでの系図が書かれていました。そして、今日読んだ11章の10節以降には、ノアからアブラムに至るまでの系図が書かれています。どちらも10代ずつにまとめられています。この10代で区切りとする方法は、民族を代表するための完全数を表しているのだそうです。 アダムからノアまでの10代、ノアからアブラムまでの10代は大変似ていますが、それぞれ特徴があります。見てみましょう。アダムからノアまでの10代は、一代ごとに、「こうして彼は死んだ」と区切られています。これは、神が、人が罪を犯したさばきとして、「人はちりだからちりに帰らなければならない」と死を制定したことを受けてのことだと思われます。当時の人は700歳から900歳という寿命でしたが、最後は必ず死んだのです。人は死ぬものとなったということを強調しているのでしょう。 ところが、ノアからアブラムの系図では、この「こうして彼は死んだ」と
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まいごのひつじ(ルカの福音書15:1~7)

①「不良ひつじのジョニー」 みことば:ルカの福音書15: 1~7   ②ひつじ園という羊の牧場があります。 ここで羊たちは毎日遊んだり勉強したりお仕事したりしながら暮らしています。 お仕事と言っても、毛を刈ってもらったり、お乳を搾ってもらったり、お世話されることがお仕事です。 強いて言えば、もぐもぐたくさん食べることが、ひつじさんたちの一番のお仕事かもしれません。 ここには羊飼いのおじさんがいて、いつも悪いオオカミから守ってくれて、おいしい草がたくさんあるところに連れて行ってくれるので安心です。 ときどき、ひつじ同士ケンカすることもあるけれど、おじさんが助けてくれるので、みんな平和に暮らすことができます。   ③ひつじ園には一匹の不良羊がいます。 名前はジョニーです。 ジョニーはいつもイライラしています。 だから他の羊たちはジョニーが苦手です。 ジョニーに近づくといじめられてしまうので、みんなジョニーから遠くに離れてしまいます。   ④ジョニーは自分よりも力の弱い羊をいじめたり、仕事をさぼったり、他の羊のお菓子をとったり、いつも自分勝手です。 「フン!強い者が一番偉いんだぜ! お利口さんなんてかっこ悪いぜ! 俺は別に友だちなんかいらないぜ!」 ジョニーはそう言って暴れます。   ⑤ある日、羊飼いのおじさんが羊たちに言いました。 「今日はみんなで隣の草原に遠足に行きまーす。 みんな列になってついてきてくださーい。」 わーい。羊たちは大喜びです。 隣の草原には、とっても美味しいクルクル草があるのです。 でもジョニーは… 「ケッ。かったるいなー」 またブツブツ文句を言っています。 ⑥みんなでゾロゾロと列になって隣の草原に向かいます。 しかしジョニーは、 「みんなでチンタラ歩きたくねーぜ! 俺はバイクで行くぜ!」と言って、 自分だけバイクに乗ってビューンと行ってしまいました。 「おーい!ジョニー!道はちゃんと分かるのか~?」 ひつじかいのおじさんは叫びますが、 「へっ。隣の草原なんてしょっちゅう一人で行ってるんだぜ。 道ぐらい分かるに決まってるぜ!」 ジョニーはそう言って走って行ってしまいました。   ⑦さて、ひつじ園のみんなは

青年の成長(マルコの福音書14:51~52)

「青年の成長」(マルコ1 4 : 51 ~ 52 ) <マルコ 14 章 51 ~ 52 節> 51   ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。 52   すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。 1.     裸で逃げた  お読みした箇所は、十字架の前夜、イエスさまが逮捕された直後でした。すぐ前の 50 節にあるように、主イエスが逮捕されると、皆は、イエスさまを見捨てて逃げてしまう。その直後に、本日の聖書箇所「ある青年」の記事が挿入されていくのです。「挿入」と言ったのは、この 51 節、 52 節が何とも不自然だからです。話の流れを一瞬止めてしまうかのような不自然さで、これら二節の無い方が、むしろスムーズに流れるくらいです。    この青年、多少の勇気は持ち合わせていたようです。皆が見捨てて逃げたにもかかわらず、この青年は一人でイエスさまについていく。 どうも彼は、イエスさまと近い関係だったようですね。それでイエスさまを逮捕した人々は、この青年をも捕まえようとしたのでした。人々は彼を、イエスに近い人物として認識したのです。  しかし、お粗末なことに、捕まりそうになった途端、彼は恐れをなし、亜麻布を脱ぎ捨て、裸で逃げてしまうのです。 惨めです。逃げながら、彼自身も惨めさを噛み締めていたのではなかったですか。自分も結局はイエスさまを見捨てた一人にすぎなかった。しかも裸で逃げている。  とにかく、この二節は、何とも不自然な挿入です。わざわざここに捻じ込んだかのよう。福音書記者マルコは、どうしてここに挿入したのでしょう。  古い映画ファンの方なら、ホラーやミステリーの先駆けとなったイギリスの映画監督、ヒッチコックをご存じだと思います。私は怖い映画は好きではないのですが、有名ですから何本か見ました。彼の映画には一つの特色があって、どこかで一瞬、監督自らが通行人などのチョイ役で登場するのです。映画ファンは、期待するわけです。今回はどこでヒッチコックが出て来るだろうと。  この「青年」の登場の仕方、どこかそれと似ています。お分かりですか。この青年とは、この福音書を記したマルコであると一般に言われています。 それにしても謎は残ります。マルコは、どうしてこのような不自然な形で

いのちを与えてくださる主(マタイの福音書9:18~26))

「いのちを与えて下さる主」 マタイの福音書9章 18 節~ 26 節 お祈り   恵み深い天の父なる神様。今週も私たちの歩みを守りこの礼拝へと招いて下さりありがとうございます。この一時、共に主に目を向けながら、やわらかな心でイエス様によるいのちの言葉を味わう時間としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。   導入   本日の聖書箇所には長血の女、会堂司の娘、会堂司、笛を吹く者たちと大きく分けて 4 人の登場人物が出てきます。今日は彼らを通して人々にいのちを与えて下さるイエス様の姿を共に見ていきましょう。また、このお話しはマタイの福音書だけでなく、マルコの福音書、ルカの福音書にも記されている出来事です。三つの福音書が大切にしたイエス様の物語です。本日はマタイの福音書を基本としつつ、必要に応じて他の福音書からも見ていきたいと思います。 長血の女について   最初に長血の女について見ていきましょう。 20 節を見ると彼女は 12 年間、長血という病気でした。この長血がどの様な病だったのか詳しくは分かっていません。どうやら何らかの理由で出血が止まらなくなる病気だったようです。ルカの福音書によれば、彼女は全財産を医者たちに使いましたが、それでも病は治りませんでした。(ルカ 8 章 43 節)また、レビ記( 15 章)で定められているように、当時のユダヤ社会では「漏出物」つまり、体から血液や体液を流す人は汚れているとされました。ですから、長血の女もその教えに従ってユダヤ社会において汚れた者と見なされていました。彼女は人との交わりも、礼拝への出席も出来ませんでした。なぜなら、当時は汚れている人が触った物は全て同じように汚れるとされたからです。このように彼女は肉体の病だけでなく社会からも遠ざけられ苦しんだ人でした。肉体のいのちはありましたが、社会的には死んだ状態だったのです。 その彼女が 20 節「イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れ」ました。人から遠ざけられていた彼女は誰にも気づかれないように、後ろからこっそりとイエス様の衣の房に触れたのです。この房はユダヤ人の着物の裾の四隅にある紐の飾りのことです。これは神の律法を見える形で表現したものです。歩くとその房が身体にまとわりつくことから、人々は歩くたびにいつも

イエスさまが建てる教会(マタイの福音書16:13~19))

イエスさまが建てる教会  (マタイの福音書 16:13 ∼ 19 )  鄭ヨンチョル牧師(千葉べテルキリスト教会) イエス様はピリポ・カイサリアの地方に行かれた時、弟子たちに「私を誰と言いますか。」と尋ねました。シモン・ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と答え、イエス様は、「わたしがこの岩の上に、わたしの教会を立てます。」と答えました。イエス様は初めて教会という言葉を使いました。私たちはイエス様が、この地に立てようとした教会について知ることができます。   1. 教会はイエス様を信じて告白する人々の集まりです。 教会はイエスをキリストと神の子として信じて告白する人々の集まりです。 新船橋キリスト教会の皆さんは、イエス様を自分の救い主であり、生きておられる神様の子として信じて告白するよう求められています   2. 教会の主人はイエス様です。  イエス様はこの岩の上に私の教会を立てると言われます。教会はイエス様が立てられ、イエス様が主人です。ですから、教会はイエス様に従い、イエス様を現す所です。   3. 教会はよみの門も勝てません。  教会には聖なる力があります。これは主であるイエス様がくださる力です。ですから、教会は勝利する共同体です。天と地のすべての権威を持っておられるイエス様が教会を守り、今日も教会を通して働いておられます。 4. 教会は御国の鍵を所有しています。 これは主が教会に与えられた特権であり、使命です。 教会が祈ると、驚くべきことが起こります。また、教会が伝道すると、新しい魂が主の前に導かれます。教会の扉が開かれ、御国の扉が開かれるのです。新しい魂が入り始めると、教会は感動し、生き始めます。私たちが解けば天においても解かれ、私たちがつなぐと天においてもつながれます。神様は教会を通してこの地を治めるのです。

その町の名はバベル(創世記11:1~9)

「その町の名はバベル」 創世記11:1~9   前回私たちは、ノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史を見ました。そこにはノアの息子の子孫たちが、「それぞれの地に、言語ごとに、その氏族にしたがって、国民となった。」ことが記されていました。ノアの息子の子孫たちはそれぞれ、9章1節の「生めよ。増えよ。地に満ちよ」という神さまの祝福を受けて、それぞれに発展したのです。今日の聖書箇所ではその経緯について記されていると理解するとわかりやすいでしょう。つまり11章は、10章と時代的には並行していると理解するのが妥当だと思います。 さて、その当時は、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばでした。ノアの家族から出た氏族ですから、もちろんそうでしょう。そして2節では、「人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。」とあります。「シンアルの地」とは、10章の8~10節のハムの子孫、ニムロデという人物が築いた王国がある場所です。ニムロデは力ある狩人で、当時絶大な権力を持っていました。当時のメソポタミア地方、現在のイラクの東部のあたりです。そしてシンアルの地の一つに、バベルという町があり、今日見るバベルの塔は、そこに建てられたのでした。 また、ハムの子孫が「東の方へ移動した」というのも気になるところです。創世記10章までを見ても、神に逆らい、神に追い出された人々がみな、東に追いやられているからです。そう考えると東に住む人々というのは、神から離れた人々が住むところと…という印象があります。アダムとエバしかり、カインもしかりです。ところがハムの子孫は、自ら東の方へ移動し、平地を見つけて、そこに住んだのです。平地というのは、人が住むにはよい場所です。台湾も東半分は山地ですが、西半分は平野が広がっており、台北、台中、高雄という大都市は、すべて西側の平地に集中しおり、その3つの都市を新幹線が結んでいます。山地側は自然災害も多く、交通網も発達しておらず、先住民の居住区となっていて、全体的に貧しく、教育のレベルが低いという特徴もあります。そういえば、この後出て来るアブラハムが、甥のロトと住み分けをする時に、ロトに土地を選ばせましたが、ロトは360度見渡して、結局、東の方角の潤った平地を選びました。そこが、ソドムという地で、道徳的には非常に堕落した町でし

ノアの息子たちの歴史(創世記10章)

「ノアの息子たちの歴史」 創世記10章   今日の聖書箇所は、一見、無味乾燥なカタカナの羅列で、聖書朗読者泣かせの個所ですが、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」とありますので、今日も、主の教えに耳を傾けながら、みことばの恵みにあずかりたいと思います。 1節に「これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。」とありますように、今日のみことばには「ノアの息子たちの歴史」が記されています。32節後半にありますように、「大洪水の後、彼らからもろもろの国民が地上に分かれ出」ました。そして、今日のみことばでは、神さまは、ノアたち夫婦からノアの息子たちの子孫によって、すべての民族を造り出されたことを私たちに教えています。   さて、2節から5節までを見ると、聖書は最初にヤフェテの子孫について記しています。1節には「ノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史」とありましたが、実際にここに記されている歴史は、ヤフェテの子孫、ハムの子孫、セムの子孫という順序です。ヤフェテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラスですが、その中でもゴメルの子孫とヤワンの子孫だけが、彼らの子らの名前も記しています。ヤフェテの子孫の記述は、ハムの子孫やセムの子孫に比べて短いのも特徴で、これは、彼らの居住地に関係がありそうです。5節を見ると、ヤフェテの子孫は海沿いの国々、地中海に面する小アジアからヨーロッパに集まっていることがわかります。トルコやギリシャ、スペインにまで及ぶ地域です。ヤフェテの子孫は、地理的にはイスラエル人の居住区から離れていたために、イスラエルとの接触も少なく、当時は、それほど関心が払われなかったということでしょう。ところが、新約聖書の時代になると、これらの地域は表舞台に出ることになります。地中海沿岸の地域を縦横無尽に伝道旅行に走ったパウロが、使徒の働き17章26節のアレオパゴスの説教の中でこう言っています。「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせた!」神さまにとってはすべての国々、民族が、愛すべき存在であり、神が関心を払っておられない人々は一人もいないということです。 さて次に、6節から20節までは、ハムの子孫が記されています。ハムの子孫は、クシュ(エチオピア)、ミツライム(