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私は主をほめたたえよう(創世記29:31~30:24)

「私は主をほめたたえる」 創世記 29 章 31 ~ 30 章 24 節 創世記をずっと学んでいますが、今日の個所は、思わず目を覆いたくなるようなストーリーが展開されています。二人の姉妹が一人の夫に嫁ぎ、一人は愛され、一人は嫌われ…。ところが嫌われている妻が次々と子を産み、愛されている妻には一向に子どもが与えられない。渦巻く嫉妬の嵐と駆け引き、もはや修羅場と言ってもいいような悲惨な状況です。日本の昼ドラでもこれほどの愛憎劇は見られないでしょう。 彼らはどこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか。それはやはり、ヤコブが姉妹二人を娶ったこと、その決断をしたことに問題があったと思うのです。ヤコブは、ラケルと結婚したくて、7年ものきつい労働に耐えたのですが、結婚初夜に寝室に送られてきたのは、姉のレアでした。翌朝、レアとラケルの父ラバンに騙されたと知ったヤコブは、ラバンに抗議するのですが、ラバンは、しれっと「姉より妹を先に嫁がせることはしないのだ。ラケルもほしければ、さらに7年働くように」と言うのです。ヤコブは、ラケルをあきらめきれず、その 残酷な 提案を飲むのです。誰に対して残酷なのでしょう。レアに対して、そしてラケルに対してです。そしてその結果が、今日見るこの家庭の修羅場です。 ヤコブはどうすればよかったのでしょうか。私は、彼はラケルをあきらめるべきだったと思います。そして、レアだけと結婚し、7年でハランを引き上げ、故郷に帰るべきだったのです。アブラハムへの祝福の契約は、サラを通して、その子イサクに引き継がれ、イサクとリベカによって、ヤコブに引き継がれました。今、神はレアを選んで、レアを通して祝福を継承しようとしているのだと、ヤコブは悟り、自分の好みではなかったとしてもレアとの結婚生活を大切に育めばよかったのです。そもそもヤコブはなぜラケルに固執したのでしょうか。ラケルが美しかった、それだけです。それだけとは言っても、男性にとっては重大なことなのでしょう。一般的に言われるのは、女性は好きという感情がない相手でも、誠実で尊敬できる相手であれば、結婚の対象として考えられるのですが、男性は、女性としての魅力が感じられないと結婚は考えられないのだそうです。けれども、そもそも結婚は、自分が幸せになるためにするのでしょうか。そうではなく、相手を幸せにするために結婚す...
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神の義が示された(ローマ人への手紙3:21~26)

「神の義が示された」 (ローマ 3:21-26 ) 齋藤五十三 26 節(読む)  宗教改革者ルターは、この 26 節に聖書の核心があるのだと言いました。「イエスを信じる者を義と認める」とありますが、これが有名な信仰義認の教えです。これは、この教えにより教会が立ちもすれば倒れもする、と言われた教えです。ルター曰く、教会の存在が、この教えに掛かっているというのです。  信仰義認とはどのような教えでしたか。それはイエス・キリストを信じる信仰により、私たちの内実が罪人であっても、キリストの義の衣で私たちが覆われていく。それゆえ、私たちの罪が赦されて、神に受け入れられていくという教えです。使徒パウロは、この大切な教えが、今この時に、明らかにされた、と 26 節で宣言します。神の特別な時の訪れを告げるメッセージとして、パウロは感動しながら語っているのです。   1.     「しかし今や」  この感動は、 21-22 節からすでに始まっていました。(読む)  「しかし今や」。これは新しい時代の到来を告げる言葉です。それは「神の義」が示されているからなのだと、パウロはやや興奮気味に語っています。この感動に私たちが共感するには、「これまで」の時代がどのようであったのかを知っておく必要があるでしょう。新しい時代は、「神の義」が示されるのとともに始まりました。それでは、これまでの古い時代を表す言葉は何であったのか。それは「神の怒り」です。ローマ1章18節にこうあります。「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」。「人々の不敬虔と不義」すなわち人間の罪深さに、神は怒っておられる。それが、これまでの時代を象徴するメッセージでした。確かに、世を見渡せばそこには目を覆いたくなる罪の現実がありました。しかし、それらの罪や不敬虔は裁かれることなく、まるで放置されているかのように見えたのです。なぜ、罪は裁かれないのか。神は人の悪を放置しているのか。信仰者なら誰もが抱く疑問です。神は何をしておられるのだろう。 神は放置していたわけではありません。神は忍耐していたのです。 25 節の後半にあります。「神は、忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこ...

騙されたヤコブ(創世記29:1~30)

「騙されたヤコブ」 創世記29:1~30 兄エサウと父イサクを騙して、長子の権利と祝福を奪い取ったヤコブは、母方の親戚のいるハランへ、お嫁さん探しの旅に出ます。後悔と不安でいっぱいの孤独な旅でしたが、主からの語りかけを受けて、ヤコブは励まされ、長い旅路を続けたのでした。そしてとうとう目的地ハランに着き、そこで、一つの井戸を見つけました。そこには三つの羊の群れが伏していました。どうやら、この地方では、近隣の羊飼いたちがそろったところで、井戸の重い石のふたを何人かで開けて、羊たちに水をやるという習慣があったようです。ヤコブは、そこにいた羊飼いたちに質問します。「兄弟たちよ、あなたがたはどこの方ですか」、彼らは答えます。「私たちはハランの者です」、ヤコブ「あなたがたは、ナホルのラバンをご存じですか?」「よく知っています。ほら、ラバンの娘、ラケルがやってきますよ。」ヤコブが彼らが指さす方を見ると、そこには、美しい女性がいました。ヤコブの目はラケルに釘付けになりました。おそらくひとめぼれです。運命の人と出会った!そんな確信があったのかもしれません。ヤコブは、彼女と二人きりになろうと思い、人払いのために、そこにいた羊飼いたちに言うのです。「まだ日は高いし、もう一度野原に持って、羊たちに草を食べさせたらいいでしょう」。ところが、羊飼いたちは、「それはできません」と断ります。羊飼いたちからしたら、よそから来た旅の者が、いったい何を言ってるんだと思ったことでしょう。そうこうしているうちにラケルが到着しました。するとヤコブは、どこから出てきたパワーなのか、大きな重い石の井戸のふたを、一人で転がし、順番もあったでしょうに、それを無視して、ラケルの連れている羊の群れに水を飲ませたのです。そして羊たちに水を飲ませ終わるやいなや、いきなりラケルに口づけして声をあげて泣き出しました。そして、(順序は逆だと思うのですが)自分の素性を明かします。自分はあなたのお父さんラバンの妹の子であることを告げました。するとラケルはすぐに家に走って行って、父にそのことを告げました。すると、ラバンも驚いて、やはり走って井戸のところまでやってきました。そして、ラバンはヤコブを抱きしめて口づけし、自分の家に連れて帰り、「あなたは本当に私の骨肉だ」と言って彼を歓迎したのでした。 さて、ヤコブがラバンの家で1か...

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...

ここは天の門(創世記28章)

「ここは天の門」 創世記28章   エサウのヤコブへの怒りが、あまりに激しく、殺意さえ抱いていることが分かった母リベカは、ヤコブを自分の故郷へ送り出すことを思いつき、夫イサクに提案します。イサク自身も、彼の父アブラハムが、イサクのお嫁さん探しに、わざわざハランにしもべを遣わして、妻リベカを見つけ出して連れて来てくれたことを思い出し、それに賛同します。また伏線としては、エサウの二人の妻のことがありました。彼女たちは、イサクとリベカの悩みの種でした。アブラハム、イサクのモットーは何だったでしょうか。「和して同せず」、カナンの地で平和を保ちつつ、なお神の民としてのアイデンティティを固守することではなかったでしょうか。二人の妻の何か問題だったかは、具体的に書かれていないのでわかりませんが、異なった神を礼拝する嫁たちは、生活の中にそれらを持ち込んだのではないかと推測できます。ですから、ヤコブの結婚相手は、なんとしても創造主にして唯一である神を礼拝する女性であってほしい、そんな願いがあったのではないでしょうか。 一方エサウはこの後、イサクがヤコブを祝福して送り出したこと。またリベカの故郷から妻を迎えるよう指示したことを知りました。しかも、その時に、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じていたことも知りました。それでエサウは、今いる妻たちのほかに、おじいさんのアブラハムが女奴隷ハガルに産ませた子ども、イシュマエルおじさんの娘を妻に娶ることにしたのです。例えるなら、欠陥住宅自体には、なんの修理もしないまま、その欠陥を補うために、建て増しするようなものです。彼に欠けているのは、心からの悔い改めだったと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 話しは戻りますが、イサクはこの時にはすでに、ヤコブが神の祝福を引き継ぐ後継者であることを認めていました。神のみこころを求めないで事を進めても、神は道を閉ざされることを彼は学んだことでしょう。ただ、ヤコブを祝福の後継者とするならば、本来ヤコブではなく、エサウを外に出すべきなのですが、さすがにヤコブのしたことがあまりに卑劣だったことと、エサウの怒りが収まるために冷却期間が必要だったこと、そして、ヤコブを後継者とするためには、結婚が欠かせなかったために、イサクは、エサウはそばに置いたまま、ヤコブを遠くハランに送り...

祝福を騙し取るヤコブ(創世記27章)

「祝福を騙し取るヤコブ」 創世記 27 章   先週は、「井戸を掘る人」と題して、イサクが神さまから与えられた「約束の地で寄留者として留まる」という使命を貫き通した姿を見ました。人と争うことを好まず、柔和で、平和的に物事を解決するイサクは、まさに理想の人と思われましたが、今日のイサクは、夫としても父親としても、また神の祝福の継承者としても、少々心もとない感じです。もちろんイサクだけではありません。妻リベカも、双子の息子の兄エサウも弟ヤコブも、少しずつずれています。そして、今日のお話の最後には、家族がバラバラになり、ヤコブに至っては、 20 年にもわたる辛い日々の始まりになったのでした。 聖書には、模範的な家族は一つもないといつも言っていますが、いったい彼らの何が問題だったのでしょうか。どこで道を誤ったのでしょうか。今日は、家族一人ひとりに焦点を当てながら、人の罪と、その背後にある神さまのみこころについて考えてみたいと思います。   まずは、なんといっても家長イサクの責任は大きいでしょう。最近は、家父長制というと、目の敵(かたき)にされますが、暴力や支配のない家長が、愛をもって、また公正をもって家族を治め、子どもたちが、やはり愛と尊敬を持って家長に従う関係は、家族の平和と安定、幸せのためには欠かせないのではないかと、私は思います。そして、そのような健康的な家父長制は、むしろ聖書的だと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 イサクは年を取りました。目がかすんでよく見えなくなったとあります。体は有限ですから、長く使えばあちこちガタが来ます。最後はからだとの戦いです。イサクは長寿だったので、なんと180歳まで生きたと、創世記の35章28節にあります。しかし、詩篇90篇10節にはこうあります。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」 イサクの生涯も決して平たんではありませんでした。けれども、彼が不幸せだったかというとそうではありません。へブル書の11章13節には、イサクを含む族長たちについて、こう書いています。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、 はるか遠くにそれを見て喜び迎え、 地...

井戸を掘る人(創世記26章)

「井戸を掘る人」 創世記 26 章1~35節   さて、このパレスチナ地方に、また飢饉が訪れました。アブラハムのときにも大飢饉が起こったことが記されていましたが、恐らくその時から100年の歳月が流れていました。いわゆる「世紀の大飢饉」ですね。イサク一行は、この飢饉のために、ゲラルのペリシテ人の王、アビメレクのものとへ身を寄せました。このアビメレク、恐らくアブハムのときから代替わりをしていたと思われます。イサクは、本当はアブラハムのようにエジプトに行こうとしていましたが、主がイサクに現れて、それを止めました。 「エジプトへは下ってはならない。…あなたはこの地に寄留しなさい」 そして、続けて、アブラハムと全く同じ祝福の約束を与えます。代が変わっても、神さまの約束には変更はありません。代が変わっても、時代が変わっても、社会の価値観が変わっても、神さまのお約束に変更はないのです。そう考えると、アブラハムに与えられた約束は、霊の子孫である私たちにも有効です。 「あなたは、この神を神としないこの地にあって、神の民、神の子として寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたは天の御国を相続する。こうしてわたしは、アブラハムに誓った誓いを果たす。あなたによって、あなたのまわりのすべての人は祝福を受ける!」 この約束は、今を生きる私たちにも有効なのです! こう見ると、神さまがイサクに与えられたミッションは、「この地に留まる」ということだったことがわかります。この後、井戸にまつわるいろんな事件が起きますが、イサクは、かたくなにこの地に留まり続けました。それは、神さまがこの地に留まれと命じたからです。この約束が与えられた時点で、イサクは意を決して、この地に留まることにしたのです。 ところが…です。カエルの子はカエルといいますか、イサクもアブラハムと同じ失敗をします。恐れから、妻リベカを妹だと偽ったのです。これもアブラハムと同じく真っ赤な嘘ではないのでややこしい。リベカは、父アブラハムの兄弟ナホル息子ベトエルの娘なので、要するに「はとこ(またいとこ)」にあたるわけです。ですから血縁はあるわけで、妹と呼べなくもない…。アブラハムのときにも話しましたが、もし、リベカの夫として、この地に寄留すれば、リベカを我がものしようとする輩(やから)が現れたと...