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エサウとの再会(創世記33章1~20節)

  「エサウとの再会」 創世記 33 章1~ 20 節 さて、ヤボクの渡し場で神と格闘したヤコブは、「神と戦って勝った」と勝利を宣言され、新しい名「イスラエル」をいただきました。名前をいただくということは、新しいアイデンティティをいただくということです。彼は、今までの「ヤコブ(かかとを掴む者、奪う者)」という名ではなく、「イスラエル(神と戦って勝った者)」という新しいアイデンティティを与えられて、新しい生き方をすることになります。 先週私は、この出来事は「新しく生まれ変わる」「新生」だと言ってもよい出来事だと言いました。イエスさまを信じている私たちは、神さまから「神の子ども」という新しいアイデンティティ(身分、立場)を与えられました。ですから私たちは、向きを変えて、今までの自分中心の生き方ではなく、聖霊の助けをいただきながら、神中心の生き方、つまり、「神の子」にふさわしい生き方を目指します。けれども、生まれながらの私たちの罪人としての性質( Nature )は、根深いですから、身分や立場は変わっても、私たちの古い性質はなかなか変わりません。ヤコブも同じでした。古いヤコブとの戦いは一生続きました。今日の聖書個所では、彼は続けて、「ヤコブ」という名で呼ばれます。そして、依然「ヤコブらしさ」が見え隠れします。けれども、ヤボクの渡し場以前のヤコブとはやはり違うのです。どこが違うでしょうか。 3節「ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ」 以前の彼は、いつも後ろにいました。32章18節では、先にエサウへの贈り物といっしょに遣わすしもべに「ヤコブもうしろにおります」と伝えよと命じています。贈り物は3つに分けられていましたから、その度に、「ヤコブはうしろに」「ヤコブはうしろに」と言わせたのです。32章21節では、ヤコブは家族にヤボク川を渡らせて、自分だけ、川のこっち側、つまり一人家族の後ろにとどまったのです。ところが、今のヤコブは違います。ヤコブは家族を3つに分けました。一番前はヤコブの子どもを生んだジルパとビルハと彼女たちの子どもと家畜などの所有物の群れ、二番目は、レアとその一群、三番目はラケルの一群です。この順序についてもつっこみたいところですが、そこは今日は控えたいと思います。それよりも、今日注目すべきところは、ヤコブが「自ら彼らの先に立って進んだ...
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ヤボクの渡し場で(創世記32章1~32節)

「ヤボクの渡し場で」 創世記 32 章 1 ~ 32 節   ヤコブはこれまで、ハラン(パダン・アラム)の地、叔父ラバンのもとを「出る(脱出する)」ことに必死でした。苦しい 20 年間、何度も叔父に騙されて、奴隷のように扱われた20年でした。ここから抜け出せさえすれば…、とりあえずそこだけに集中し、時をうかがって、叔父を欺き、やっとの思いでハランを脱出したのでした。そして、さあ、これで安心とカナンの地に向かって旅を続けたのですが、いざ故郷を目指すことになると、言いようのない「恐れ」に包まれました。そうです。そもそもヤコブはどうして、故郷を離れてハランに向かったのでしょうか。それは、このまま家にいたら兄エサウに殺されると思ったからでした。ヤコブは、兄エサウを2回も騙して、長子の権利と祝福を奪いとったからです。ヤコブはこのエサウの復讐を恐れて、故郷を旅立ちました。そして今、故郷に帰るにあたって、ヤコブはその現実に向き合わなければならなかったのです。 ところが、神さまはいつもお優しいお方です。ヤコブが不安と恐れの中で旅を続けていると、神の使いたちがヤコブに現れました。2節を見るとヤコブは、「ここは神の陣営だ」と言っていますから、み使いは、大人数の軍隊のようだったようです。そういえば、創世記の28章でも、神さまはヤコブに語りかけられました。その時には、故郷を離れて心細くなっていたヤコブに、天から梯子を下ろされて、多くのみ使いが、そこを上り下りしている幻を見させてくださいました。今回は、軍隊です。なぜでしょうか。ヤコブがエサウとの再会を恐れていたからです。ヤコブはこの幻を見た場所を「マハナイム」と呼びました。これは「二つの陣営」という意味です。ヤコブはこの幻によって勇気づけられ、兄エサウに使いを送ってメッセージを伝えさせました。4節「あなた様のしもべヤコブがこう申しております。私はラバンのもとに寄留し、今に至るまでとどまっていました。 私には牛、ろば、羊、それに男女の奴隷がおります。それで私の主人であるあなた様にお知らせして、ご好意を得ようと使いをお送りしました。」 ほどなく、ヤコブがエサウのもとに送った使者が帰って来ました。彼は言いました。 6節「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にい...

両刃の剣を持つキリスト(ヨハネの黙示録2章12~17節)

「両刃の剣を持つキリスト」 (黙示録 2:12-17 )   はじめに 12 節「また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる──。』」 小アジア(今のトルコ)の七つの教会に目を留めています。最初の町エペソは小アジア最大の町、二番目のスミルナは商業で栄えた港町でした。本日のペルガモンは、文化の中心でした。有名なのは蔵書 20 万冊を超える図書館です。その規模は、当時のエジプト、アレクサンドリアに次ぐそうで、この町は学問の町でもあったのでしょう。町には多くの美しい建造物が立ち並んでいたそうですが、その中には相当数の異教の施設があったとのこと。特にペルガモンは、小アジアで最初に、ローマ皇帝カエサルを礼拝する神殿が建った町と言われます。そう、外見は美しくとも霊的には暗い。それがペルガモンであったのでした。  ここで示されたキリストの姿は「鋭い両刃の剣を持つお方」です。この姿にペルガモンの兄弟姉妹たちは緊張を強いられたかもしれない。鋭い両刃の剣はいったい誰に向けられているのだろう。外の敵に向いているのか、あるいは教会の内に…。この両刃の剣を持つキリストは1章 16 節に現れて以来、変わることなく教会を見つめ続けていたのです。   1.     サタンの王座 2章 13 節「わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」 「サタンの王座」と聞くだけで、この町の恐ろしい様子が伝わってきます。皇帝崇拝の神殿に加えて異教の施設が立ち並んでいましたので、「やはりそうか」と思わされた。それにしても「サタンの王座」とは尋常ではないでしょう。実際、すでに殉教者を出していたのです。アンティパスとの実名が出てくるほどにリアルで、今なお迫害が教会を取り囲んでいたことを私たちに実感させるのです。  迫害の中、教会はよく戦っていたようです。いや、「わたしの名を堅く保った」とありますので、戦ったより「耐えていた」の方が正確かもしれません。教会は、殉教者を出し、身の危険を感じながらも、主イ...

ヤコブ一家の旅立ち(創世記31章17~55節)

「ヤコブ一家の旅立ち」 (創世記 31 章 17 ~ 55 ) 神さまから、 「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」 ( 3 節)とのお言葉をいただいたヤコブは、早速旅支度を始めます。しかし、そのあたりは抜かりないヤコブのこと、しっかりと時期を選んでいます。まともに、ラバンに掛け合っても、すんなり送り出してくれるとは到底思えない。だからと言って、すでに大所帯になってしまった今、こっそり出発するのは不可能。見つかったらひどい目に合うのは目に見えている。ヤコブは思案したあげく、「そうだ、羊の毛を刈る頃に家を出よう!」と決めました。 羊の毛刈りの時期は、春(4~5月)でした。子羊が生まれ、冬の間伸びた毛を刈るのに適した時気です。この毛刈りは、単なる農作業というだけではなく、収穫を感謝し、豊穣を願う盛大なお祭りでもありました。ですから、この時ばかりは、家の主(あるじ)自ら毛刈りに参加し、毛刈りが終わると、家族や雇人を招き、盛大な宴会を催す習慣があったようです。 20節「ヤコブはアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにした。」 時期を狙って逃げ出するというのは、理解できますが、この「欺いて」という言葉が気になります。26、27節でも、今度はラバンの口からも、「私を欺き」、「私を欺いて」と出ています。よっぽど腹に据えかねることがあったのでしょう。この「欺いて」の原語は、「心を盗む」という意味を持つそうです。そして実は、この「欺く」という言葉は、19節の 「ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した」 とありますが、ここに出て来る「盗み出す」と同じ単語なのです。こうなると事態は穏やかではありません。ヤコブさん、いったい何をしたの?と思います。詳しくは書いていないのでわかりませんが、何か相当のことをしたのではないかと想像します。ヤコブの悪い癖が、また出たようです。父や兄エサウを騙したヤコブの古い性質です。神さまが、あんなにはっきりと、 「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる」 と言われたのに、神の守りを信じないで、なぜまた姑息な手を使ったのでしょうか。 さて、ラケルに目を移しましょう。19節後半 「ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した...

わたしは、あなたとともにいる(創世記31:1~16)

「わたしはあなたとともにいる」 創世記 31 章 1 ~ 16   6年前、ヤコブはラバンに、14年にもわたる娘二人の花嫁料分は働いたので、そろそろ故郷に帰らせてくれと申し出ます。けれども、ヤコブのおかげで経済的に祝福されたラバンは、ヤコブの願いに対して、聞く耳を持ちませんでした。そして、それなら報酬を与えるので、このままここにいるようにと要求します。ヤコブは、一刻も早く、強欲なラバンのもとを離れたかったのですが、ラバンの承諾なく去るわけにはいかず、そのまま残ることにします。 ラバンとヤコブが結んだ約束は単純で、ぶち毛やまだら毛、縞毛の羊ややぎが生まれれば、ヤコブのものになるというものでした。この当時のこの地方の羊はたいてい白、やぎは黒でしたので、ぶち毛やまだら毛、縞毛のものが生まれるのは珍しかったものですから、ラバンは、これ幸いと、その条件を飲みます。そして、用心のため、今いる家畜の中で模様のある家畜たちをすべて群れから離し、遠く息子たちがいるところに送ったのでした。 けれども、ヤコブは11節を見ると、神さまから夢で知恵を授けられて、その通りにすると、なんと、生まれてくる家畜の多くは、縞毛やぶち毛、まだら毛になったというのです。ヤコブの家畜はみるみる増えていきました。それに対して、ラバンの家畜は、むしろ減っていき、しかもなぜが、ヤコブの家畜に比べると弱いものばかりになってしまったのです。 ラバンはこうなってみて、初めて思い知りました。ヤコブが自分に属しているときは、彼も神の祝福にあやかることができるけれど、ヤコブが自分から独立していまえば、もう神の祝福に与ることはできないのだと。しかし、今から報酬を変えるわけにもいかず、ラバンは苦々しい思いで、ヤコブを見ていたのでした。また、ヤコブに嫉妬していたのは、ラバンの息子たちも同様でした。彼らはヤコブに逆恨みをして言うのです。「ヤコブはわれわれの父の者をみな取った。父の物で、このすべての富をものにしたのだ」( 1 節) とんでもない言いがかりです。そういえば、最近のラバンの態度も変わってきました。ラバンは、これまでもヤコブのことなんて、これっぽっちも愛してはいなかったし、尊敬もしていなかったけれど、少なくとも、「ドル箱」のように、いい金づるだとは思っていたので、一定の敬意は払われていたと思う...

良い知らせ(ローマ人への手紙10:13~15)

「良い知らせ」 ローマ人への手紙10:13~15   今日は2026年の第一主日です。いつも年が変わると、年間テーマを決めます。2025年は、「賛美する教会」でした。2024年は、「分かち合う教会」、2023年は、「福音に立つ教会」、2022年は、「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、2020年は「聖書を読む教会」です。今までに掲げた年間テーマを見て見ると、そろそろ「伝道する教会」をテーマにしなくてはいけないのではと示されました。教会の第一の存在意義は、「伝道」だと思うのですが、今までそれをテーマにしてこなかった理由の一つは、教会が伝道するのは当たり前だからです。そして、もう一つは、ひょっとしたら、牧師が伝道が苦手だからかもしれません。個人伝道の経験も乏しいですし、伝道の成功体験も少ないのです。そしてもう一つ、今年のこのテーマを選んだ理由は、牧師になって5年目、遅ればせながら、伝道の楽しさに気づき始めたからもしれません。昨年は、献堂20周年記念コンサートを行い、普段教会に来ておられない方がたくさんいらっしゃいました。また子どものクリスマス会は地域支援活動のリソースを利用して、たくさんの地域の方に、クリスマスの意味をお知らせすることができました。そして、 SNS を駆使して、毎週のメッセージをたくさんの人に聞いてもらえるような工夫をするのも楽しかったです。ですから、今年は、皆さんと楽しく伝道したいと思ったのでした。   今日は、主に15節後半を中心に見ていきます。 「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」 以前の訳は、「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんと立派でしょう」でした。けれども、実は今の訳の方がギリシア語の聖書の語順に忠実に訳されています。原語では、「なんと美しいことか!」と感嘆文から始まっているのです。英語では、どの訳も“ How beautiful ”や“ How wonderful ”で始まります。つまり、ここでは感極まって、「なんと美しいことか!」とまず声を上げているのです。 実はこの言葉はイザヤ書の52章7節の引用です。 「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であら...

思いがけない出会い(ルカの福音書2章21~38節)

「思いがけない出会い」 ルカの福音書2:21~38   12月21日に発行された「クリスチャン新聞」の一面は、グレースガーデンチャーチの阿部頼義牧師が、「思いがけない出会いのただ中におられる主」というタイトルで記事を書いていました。世界で初めのクリスマスでは、いくつかの思いがけない出会いがあり、その中で、イエスさまが人々に現れているのだというのです。私は、本当にそうだなと思いました。イエスさまとの出会いはいつも思いがけないとき(タイミング)に、思いがけない場所で、思いがけない状況の中で起こる。私たちはそれを見逃してはいけないと思うのです。今日は、シメオンとアンナが幼子イエスさまと出会った聖書個所から、そんな出会いの不思議を見ていきたいと思います。   100パーセント神であられるイエスさまは、100パーセント人となってこの地上に生まれてくださいました。イエスさまが完全に人となられた一つの現われとして、イエスさまは律法に従われました。ガラテヤ 4:4 -5にはこうあります。 「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。」 律法の下にある者を贖い出し、神の子とするために、イエスさまは自らを律法の下に置かれたのです。 当時の律法によると、赤ちゃんが生まれるとすぐに、3つの儀式を行うことになっていました。一つ目が 八日目の割礼 です。この時に子どもに命名します。み使いが、マリアとヨセフそれぞれに現れて、名前は「イエス」とするように命じましたので、その通りイエスと名付けました。 そしてもう一つが 長子の贖い です。出エジプト13:2には、 「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである」 (23節に引用あり)。イエスさまは、長子なので贖わなければなりません。家畜の初子であれば、それをささげるわけですが、人間の場合はそうはいきませんから、贖い金というものを神殿にささげました。後に十字架によって人の罪を贖うイエス・キリストが、ユダヤ人の律法に従って、贖いわれたというところに、神のへりくだりを見ます。 三つめが 産後のきよ...