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悲しむ者の幸い(マタイの福音書5章1~4節)

  「悲しむ者の幸い」(マタイ 5:1-4 ) はじめに  前回は、「心の貧しい者の幸い」でした。「心の貧しさ」がなぜ幸いなのか。世間一般の価値観とのギャップに私たちは戸惑いました。そして主イエスはいったい何を語っているのか、御言葉を皆さんと思いめぐらしたことであったと思います。  「心の貧しさ」とは、神の前に自分の貧しさを知っていることです。この世界には神がおられ、恵みによって支配をしている。心の貧しい者はこのことを信じるがゆえに、神の前にへりくだり、「神さま、私にはあなたの赦しと恵みが必要です」と祈ることができる。そのように心貧しく生きる人は、神の恵みの支配の中、すなわち「天の御国」で生きることになるのです。  本日は二番目の幸いに目を留めます。   1.     悲しみ 4 節「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」。    これもまた私たちを戸惑わせます。なぜ「悲しむ者」が幸いなのでしょう。これもまた、私たちが想像し得ない幸いです。普通私たちは考えます。「悲しみなどない方が良い」。おそらく殆どのキリスト者も皆、そのように考えると思います。  この「悲しむ者の幸い」を理解するには、「心貧しい者」の幸いから続けて考える必要があります。この世界は神が恵みによって治めている。自分は神の恵みがなければ生きていけない。こうした「心貧しき」価値観で生きる者が、曇りのない目でこの世界を、身の回りを見渡せばいったい何が見えてくるでしょう。そのとき目に入ってくるのは間違いなく、悲しみに満ちているこの世の光景、そこで苦しみ悩む人々の姿です。    それは、山の上で「山上の説教」を聴いた弟子たち、そして語ったイエス・キリストにとってもそうでした。彼らは山の上でキリストの教えを聴きながら至福の時を過ごしました。神の言葉に浸る時間は、私たちにとっても良い時間ですね。私も御言葉の朗読を聴くと、心が洗われる思いになります。  ところが、ところが… そのような至福の時間を終え、いざ山を下りれば、主イエスと弟子たちを待ち受けていたのは何だったでしょう。待ち受けていたのは、病で苦しむ人々の現実でした。マタイ福音書8章、主イエス一行が山を下りてまず出会うのは...
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父の決断(創世記43章1~15節)

  「父の決断」 創世記 43 章1~ 15 節 私たちは42章までで、以前とは変わったヤコブの息子たちの姿を見てきました。彼らは、自分たちが、嫉妬に駆られてヨセフにした仕打ちについて後悔していました。弟を古井戸に放り込んで放置し、見殺しにしようとしたこと。またそれは思いとどまったけれど、通りがかりのミデヤン人にヨセフを売ったことを後悔していたのです。父の嘆きや、エジプトで次々と襲ってくる試練の中で、これは自分たちがしてきたことの報いなのだとの罪の自覚も生まれていました。 ヨセフも同じく変わりました。17歳までの彼は、父の寵愛を一身に受け、高慢になり、兄たちを見下しているようにも見えました。兄たちにとっては、鼻持ちならない嫌な奴だったのです。こうしてヨセフは、兄たちに殺されそうになります。けれども兄ユダの提案で、彼はエジプトに売られます。けれどもエジプトで奴隷として仕える中で、また牢獄で囚人たちの世話をする中で、彼は、自らを省み、変えられていったのです。そして、自分の状態によらず、いつも共にいて、結局はヨセフのやることなすことすべてを祝福してくださる神への信仰が育っていきました。 けれどもここで、何も変わっていない人が一人います。それは父ヤコブです。もちろん彼は、ハランで義理の父ラバンに仕える中で、何度も騙され、苦しいところを通ります。そしてその中で、神さまからのお取り扱いを受けました。かつては、その名のごとく、「かかとを掴む者」つまり、人を欺き、蹴落とす者だったのですが、ラバンのもとで20年仕えることによって、変えられていきました。 けれども彼には、まだ乗り越えなければならない問題がありました。それは、子どもたちへの「偏愛」です。彼は、二人の妻、二人の側女、そしてそれぞれの子どもを公平に愛することができませんでした。自分が愛していたラケルの二人の子、ヨセフとベニヤミンを特別扱いしていたのです。そしてそれが原因で兄弟間に不協和音が生まれ、やがてそれは殺意へと変わっていったのでした。そしてヨセフを失った今、その寵愛は同じ妻の子ベニヤミンに向かいました。一回目、エジプトに息子たちを食料を買い遣わした時にも、ベニヤミンは一緒に行かせませんでした。こう聞くと私たちは、まだ幼いベニヤミンを思い浮かべるかもしれませんが、実は彼はもう 30 歳ぐら...

心の貧しい者の幸い(マタイの福音書5章1~3節)

  「心の貧しい者の幸い」(マタイ 5:1-3 ) はじめに 1節「その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た」。    イエスが山に登り、弟子たちがその前に集まる。そしてイエスが口を開いて教え始める。有名な教え「山上の説教」の始まりです。これからしばらくの間、この山上の説教から皆さんと学んでいきたいと思います。  イエスさまがこのようにして語り始めた教え。それは、これまで誰も聞いたことのないような教えでした。イエスさまが語り終えたときに聴衆は皆驚くのです。彼らは、世間一般の倫理道徳と異なる、新しい生き方に目が開かれていくのです。   1.     幸いとは 3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」。    3節は、山上の説教全体の主題です。この短い言葉の中に、山上の説教の教えが凝縮しているとも言われます。ですが、皆さんどうでしょう。これを読んで何をお感じになったでしょうか。「これが本当に幸いなのか」と、戸惑いを感じた方もあるかもしれません。少し想像してください。何の前触れもないままに、もし皆さんが人から面と向かって、「あなたは心が貧しい」と言われたら、私も含めて殆どの方が憤慨すると思います。普通に聞くならば、ここで言われる「心の貧しさ」は、どう考えても幸せとは結び付かないのです。 しかし、キリストは「心の貧しさ」を幸いであると言われました。この世の価値観とは逆をいっています。これは私たちが聴いたことのない教えなのです。いつの時代も世の中には、幸せを語る書物や思想が数多くあります。「こうすれば幸せになれる」「これが幸せだ」と、幸福を語る教えはいつの時代にも絶えることがない。それは当然です。人は誰しも幸せになりたいし、幸せを求めるのです。しかし、そうした世の中の教えとは全く異なる響きがここにある。「心の貧しい者の幸い」。これはキリストだけ、聖書だけが語る価値観なのです。 この3節の御言葉は、私たちに問いかけているのです。「あなたは本当に幸せですか」と。私たちは誰もが「自分の幸せ」について考えてきたと思います。そして自分なりに、「これが幸せだ」という、自分なりの幸福観を持っています...

争いはどこから(ヤコブの手紙4章1~3節)

  「争いはどこから」 ヤコブの手紙1章1~3節   8月は、日本では戦争の悲惨さと平和の尊さを深く心に刻む重要な月です。 8 月 6 日の広島平和記念日に始まり、 8 月 9 日の長崎原爆の日、そして 8 月 15 日の終戦記念日があり、全国各地で平和を祈る行事や黙とうが行われます。 私たちが属する日本同盟基督教団は、教憲教規の前文の中で、「過去の戦争協力と偶像礼拝の罪を悔い改め、世の終わりまでキリストへの信仰を堅持する。」と謳っており、かつて、戦争に加担し、天皇崇拝をアジア諸国の教会に強要したことなどを深く悔い改めて、二度と同じ過ちを繰り返すことがないようにと、毎年、 8 月になると、そのことを心に刻む機会を設けています。 よく、戦争の原因の多くは「宗教」だと言われます。また、そのようなことを言う人は、「その点日本は、宗教へのこだわりがないので、平和的な国だ」というのです。本当にそうでしょうか。日本は、ほんの80年前には、自ら神国日本(皇国)と呼び、いざとなれば神風が吹くと言っていた国です。「天皇陛下ばんざい!」と敵の軍艦に突っ込んで行った若い兵士たちがいる国、おとなり韓国で、神社参拝を拒否する牧師たちを拷問し、獄死させた日本を思う時、「日本は宗教へのこだわりがないので平和」などとは言えないと思うのです。 また、歴史辞典『 Encyclopedia of Wars (戦争の事典)』によると、過去に起きた 1,763 件の戦争のうち、宗教を主原因としているのは 123 件であるとあります。割合にして 7 %弱です。宗教戦争の代表的なものが、ヨーロッパのユグノー戦争、三十年戦争、そして中世の十字軍などです。その他 93 %は、領土拡大、経済的利益、利権争い、民族対立などです。けれどもこれらを理由に国民を戦いに動員することはできません。そこで為政者たちは言うのです。「これは正義のための戦いだ」「圧政の中でしいたげられている相手国の国民を救うのだ」「大量破壊兵器を持っているから」「向こうが先に仕掛けたから」「仕掛けるかもしれないから」「自国の平和を守るため」「殺らなければ殺られる」そんな大義名分を掲げ、戦争を始める。そして、一度始まった戦争は、終わらないのです。そして多くの尊い命が失われていくのです。   今日...

十字架のことば、神の力(Ⅰコリント人への手紙1章18~25節)

  徐亥貞(ソ・ヘジョン)師(播磨キリスト教会) 「神の力、十字架のことば」 コリント人への手紙第一 1:18-25 おはようございます。今日こうしてともにみことばの恵みを分かち合える幸いな時が与えられていることを感謝いたします。最近、日本と世界の各地は大きな地震や山火事、戦争など不安と混沌の中にありますけれども、その中でも、主の日を覚えて御前に集い敬愛する皆さんとともに主日礼拝をささげることができますことを感謝いたします。 数えてみましたが、私たちの家族は 2011 年 4 月から 5 年間新船橋で皆さんとともに礼拝を守りました。そして、船橋から離れて働きに出ていたのが 2016 年 3 月でした。ちょうど 10 年前です。本当に右も左も分からず、なにもかも未熟で足りない私たちの家族のために、一生懸命祈り支えてくださった皆さんの尊い愛を今でも覚えています。目に見えない神の愛を目に見える共同体の兄弟姉妹を通して身をもって豊かに経験することができました。皆さんのおかげさまで、趙牧師もサムエルも元気に過ごしています。イチゴ食いしん坊の 1 歳だったサムエルは 16 歳になりました。高校 1 年生です。播磨の教会は高齢化が進んでいますけれども、みんな元気で何とか頑張って種まきの働きに力を合わせています。今日この場を借りて皆さんに感謝のお礼を申し上げます。皆様、本当にありがとうございました。神様の豊かな顧みと祝福を心からお祈りいたします。物理的には離れていてもいつも主にあって互いに祈りに覚えていることを感謝し励まされています。 播磨の教会は今年開拓から 32 年目を迎えましたが、新船橋は 1980 年開拓伝道をはじめて今年 46 年になると思います。 21 世紀を生きる私たちの諸教会は万物を造られ今も歴史において世界を治めておられる全能の神を礼拝する共同体です。諸教会を開拓から今日まで守り導いてくださった主の恵みに感謝をいたします。そして、これからも主ご自身がなされる素晴らしい救いの御業を期待しつつ神と隣人に仕えていく共同体でありたいと願います。 今日は、 1 世紀のコリント教会に与えられたみことばを通して今日の私たちの教会に語られる主の御旨を知り、示される御心をこれからともに見ていきたいと思います。  今日のテキスト 1 章 18 節...

兄たちとの再会(創世記42章1~25節)

  「兄たちとの再会」   創世記42章1~38節    41章では、兄たちによってエジプトに売られたヨセフが、神さまの導きの中で、とうとうエジプトの最高権力者になり、エジプトだけでなく、近隣諸国を飢饉から救うことになるというところで終わりました。もし、ヨセフ物語が、ヨセフのサクセスストーリーであるならば、ここで終わってもよかったのです。けれどもヨセフ物語は、この後、創世記の終わり、50章まで続きます。なぜでしょうか。それは、ヨセフ物語がサクセスストーリーでおわるようなものではないからです。実は、ヨセフ物語は、家族の和解の物語です。  ヨセフ物語は37章から始まりました。家族全員が共に住み、父ヤコブを中心に、表向きは、平和な家庭生活を営んでいました。けれども、二人の妻と二人の側女からなる家族は、水面下で、妬みと憎しみが渦巻いていました。そしてとうとうそれは、水面下では収まらなくなくなり、兄たちは、行動に移してしまうのです。彼らは、弟ヨセフを殺そうとしました。けれども殺してしまっては何の得にもならないと、エジプトに向かうミデヤンの商人たちに、たった銀20枚で彼を売り飛ばしてしまったのです。  妬みと憎しみで沸騰しているときには、その勢いに任せて、人はどこまでも残酷になれます。兄たちは、ヨセフが着ていた服に、獣の血をべったりとつけて持ち帰り、「こんなものを見つけました…」と父に手渡すと、父は、大げさではなく、死ぬほど悲しみ、苦しみました。そして、明けても暮れても悲しみ続けたのです。ヨセフの兄たちは、自分たちがしたことの意味を、また恐ろしさをじわじわと感じていくことになります。けれども、自分たちのしたことは、決して父に知れてはいけない、表には出してはいけないと、そこはしっかり蓋をして、できれば墓場まで持って行こうと決めていたのでした。  私たち人間は、罪を隠しながら、平安に生きることはできません。8月は平和を考える月です。戦争は加害者も被害者も傷つけました。帰還兵の PTSD (心的外傷後ストレス障害)は、戦場での極度の恐怖や暴力の体験が原因で引き起こされ、不眠、フラッシュバック、攻撃性の暴発、アルコールや薬物への依存、社会からの孤立などの深刻な症状を引き起こしました。  また、犯罪者が逃走しているときの...

しかし私の恵みは(Ⅱサムエル記7章1~16節)

  聖書箇所 第二サムエル 7:1-16 説教題「しかしわたしの恵みは」   導入 今朝、皆さんと一緒にお読みした聖書箇所は、いわゆる「ダビデ契約」という、聖書全体においても重要な出来事を取り扱っています。このひととき、共にみことばから教えられながら、神さまがダビデにどんな約束をなさったのか、そしてその約束は私たちにとってどのような意味をもたらすのかをみていきましょう。   背景 まずは、この箇所の背景を見てみましょう。この前の章で、ダビデは神の箱を都に運び込んだばかりでした。神の箱には、出エジプトのときにモーセが神から授かった十戒が刻まれた石板が納められています。神様が共にいてくださることを意味する大切な箱でした。しかしこの箱は、政治の中心から離れた場所に、長い間放置されていたのです。神の箱を運び込むというのは、ダビデのたっての願いでした。ダビデはサウルの家との長い戦いを終え、イスラエル全体の王となりました。そして都をエルサレムに移すとすぐ、神の箱を運び入れたのです。今や、神は私たちと共におられる。その喜びのあまり、ダビデは人目も憚らず跳び上がり、踊り回ったといいます。   ダビデの願い (1-3) さて、ダビデの次の願いは、神の家、神殿を建てることです。ダビデは自分の家に住んでいました。もう敵から逃れて身を隠す必要はありません。 1 節には、主は周囲のすべての敵からダビデを守り、安息を与えていたとあります。もう自分たちは移動する民ではない、神がアブラハムに約束された、あの約束の地に定住する王国となるのだ。神が統治する王国で次にすべきは神殿の建設である。周辺の異教の文化においても、神々に対し、大きく立派な神殿を建てるということはなされていました。このダビデの願いは、一国の王として当然のアイデアだったと言えます。   しかし同時にこの願いは、ダビデ個人の信仰の表れでもありました。ここまでイスラエルの民を導いてくださった神への感謝を表したい。羊飼いの家の末っ子だった自分が、神の代理者である王として選ばれ、今安息が与えられている。それなのに、自分は立派な家に住んでいて、神の箱は天幕の中に住んでいる!ダビデの純粋な信仰が伝わってくるようです。 2 節の「天幕」という言葉に注目し...