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2025年12月24日クリスマスイブ・キャンドル礼拝

「平和の君」(イザヤ9章 6 節)   6 節「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。   1.     戦争の時代  これは、暗闇に差し込む一筋の光として語られた神の言葉です。少し前に遡った節には、「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る」と約束されていますね。この背景には戦争があったのです。すぐ前の5節には、「戦場で履いた履物」や「血にまみれた衣服」が出てくることからも、お分かりいただけると思います。このメッセージは戦争の時代に語られたのです。  時代は紀元前8世紀のイスラエルです。長い戦争の挙句、アッシリアという大国の圧迫に苦しみ、人々は涙と嘆きの日々を過ごしていました。そのような時には、いつも子どもたちや女性、お年寄り等、弱い立場の人たちが犠牲となっていくのです。今の世界も「戦争の時代」になったと言われています。ウクライナで、イスラエルのガザで、多くの人々が苦しみ喘いでいます。ウクライナでは、もう 100 万人以上の死傷者が出たそうです。ガザでは 17 万の死傷者があり、何とその七割が子どもと女性。いったいいつまで続くのでしょう。 昔も今も、戦争は悲劇を生み、暗闇をもたらす。お読みした聖書の言葉の背後にも、そんな暗い闇があったのです。   2.     神の助けを待つ人々  そうした時代の中、信仰者たちは祈り続けていました。神さま、どうか私たちを救ってください。争いが終わり、闇を光が照らし、平和な時代がくるように。信仰者たちは祈り続けていた。そんな祈りに応えて、神の言葉を伝える預言者イザヤが、6節を語ったのです。 6節(読む)  これは不思議な言葉です。戦争と敵の圧迫を終わらせ、闇の中に光を灯すために、ひとりの男の子が生まれる、というのです。主権がその肩にあると言いますから、この子は、やがて王座に就く王子さまでしょうか。しかし、それにしても不思議な言葉なので、これを聞いた時、誰もこの意味が分からなかったと思います。 その男の子は「不思議な助言者」と言われます。知恵があるのです。小さな男の子...
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羊飼いに届いた福音(ルカの福音書2:8~20)

  「羊飼いに届いた福音」 ルカの福音書2:8~20 先週は、ローマ帝国の皇帝アウグストゥスから、住民登録をせよとの勅令が出され、ヨセフと身 重のマリアが、ナザレからベツレヘムに旅をすることになったところから始まりました。長旅を終 えて、やっとベツレヘムの町に着いたものの、町は住民登録のために、ごった返していて、宿をと ることができず、彼らは、やむを得ず家畜小屋に泊まり、そこでマリアは出産し、赤ちゃんのイエ スさまを飼葉桶に寝かせた、というところまでお話ししました。  8-9節「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると 、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」 羊飼いの仕事は過酷でした。乾燥したパレスチナ地方で、羊たちに牧草を食べさせることは、簡 単なことではありません。また、羊たちが迷わないように、群れ全体に目を配り、野獣などの外敵 から羊たちを守らなくてはいけません。「羊飼い」は、英語で“Shepherd”と言いますが、もう一 つの言い方は“Pastor”です。日本語の「牧師」は、英訳すると“Pastor”ですね。牧師は、神さまにゆ だねられている群れを牧会し、羊たちをみ言葉で養い、群れ全体に目を配り、悪い教えが入ってこ ないように、外敵から群れを守る使命があるのだなと改めて思いました。  さて、そんな羊飼いたちが、いつものように焚火を囲んで野宿をしていました。すると天のみ使 いが、彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたのです!「主の栄光」という言葉は、主の 尊厳、卓越性、完全性を表しています。そして、神さまの顕現、臨在を通して現れます。出エジプ トの時、イスラエルの民は、その栄光を見て、ひどく恐れました。シナイ山で神がモーセに現れた とき、モーセの顔は、神の栄光の輝きを反射して、輝いたので、顔に覆いをかけなくてはなりませ んでした。また、神の栄光は、神の幕屋に満ち、のちに神殿に満ちました。それは人が近づくこと ができない、圧倒的な聖さと、御力の現われだったのです。ですから、羊飼いたちは、その栄光触 れたときに、すぐに地にひれ伏し、恐れました。当然の反応です。けれども、恐れる羊飼いたちに 、み使いは言うのです。 11‐12節 「恐れることはありません。見なさい。...

居場所がなくても(ルカの福音書2:1~7)

「居場所がなくても」 ルカの福音書2:1~7   2章は、イエスさまがお生まれになったバックグラウンドから始まります。皇帝アウグストゥスの治世に住民登録をせよという勅令が出されます。アウグストゥス(本名オクタヴィアヌス)は、紀元前27年から紀元14年にローマ帝国を治めていた歴史上の人物です。アウグストゥスという称号の意味は、「尊厳なる者」という意味を持ちますが、読んで字のごとく、彼はローマの内戦を終結させ、初代皇帝として40年も治め、約200年もの平和を全ヨーロッパ、シリア、エジプト、地中海世界全域に実現させた歴史上最も偉大な指導者の一人と言えます。 このような時代背景を見るにつけ、神の子イエスさまは、この地上に生まれるのに最も適したときに生まれたことがわかります。神さまは、この時期を目指して、救いの準備をされてきたのです。この時代より前でもだめだった、この時代より後でもだめだったということです。この時代がベストだったのです。その理由をいくつかあげましょう。 まずは、先ほど言いましたように、この時代はそれまでになく、平和だったのです。ローマによる平和は「パクスロマーナ」と言いますが、このような平和な世界で、交通網が発達し、すべての道はローマに続くと言われるようになりました。交通網が整備されるということは、人々の移動が容易になったということです。また治安と行政制度が安定していたことも挙げられます。こうして、イエスさまの福音はやがて、短期間に広く世界に広がっていったのです。 二つ目は、共通語としてのギリシア語(コイネー・ギリシア語)が広く使われたので、新約聖書がこの言語を通して書かれ、また、旧約聖書もギリシア語に訳されて、異なった民族や文化にも直接聖書のメッセージが伝わったのです。 三つめは、メシア待望の高まりが最高潮になっていたということです。イスラエル民族は、長いバビロン捕囚を経て、今はローマ支配への苦しみを経験しました。そんな中でかつてないほどの救い主、メシア到来への期待が高まっていたのです。 聖書はこの時代を「時が満ちた」と表現しています。イエスさまの先駆者バプテスマのヨハネは、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と荒野で叫びました。まさに、この時代は時満ちた時代だったのです。   ...

エッサイの根株から(イザヤ書11:1~10)

「エッサイの根株から」 イザヤ書11:1~10   イザヤ書には、たくさんのメシア預言がありますが、今日の聖書個所は、数あるメシア預言の中でも、クリスマスによく読まれる預言の一つで、メシア(キリスト)がお生まれになる予告にとどまらず、当時の大国アッシリアやバビロンへの裁きの預言、また、来るべき新天新地の預言まで内包されているスケール大きな預言なのです。私は、この説教を準備をする中で、この短い10節に、本当に豊かなメシア(キリスト)の姿と、メシアであるイエスさまが地上に来られることの大きな意味、意義が語られているのに、圧倒される思いでした。 1節「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」 。イエスさまが生まれる700年も前の話です。先週は大茄子川実習生が、イザヤ書6章から、イザヤが主に預言者として召されたときのことを語ってくださいました。今日の個所は、イザヤが召されてから20年以上経ったころの預言だと言われています。当時、世界を圧倒的な力で支配していたのは、アッシリアという超大国でした。アッシリアの強大な軍事力は全世界を覆い、イスラエルを含む小国は、その支配下に置かれました。神の民は、ダビデ王やソロモン王の頃の統一王朝から一転、分裂し、北イスラエルの10部族、南ユダの2部族に分断されていましたが、北イスラエルはすでにアッシリアによって陥落させられ、捕囚の民として引かれて行きました。南ユダも、神さまのあわれみによって、アッシリアの攻撃からは奇跡的に守られましたが、それでも神の前にへりくだることをせず、自らを誇り、その背信と傲慢のゆえに、やがてはバビロン帝国に滅ぼされ、多くの人々が捕囚としてバビロンに連れ去られることになります。そんな時代背景の中で、イザヤは、今日の個所の預言をします。   1 節「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」 エッサイは、ダビデ王の父親です。ですから、これは、ダビデ契約が神に忘れられていないことを語っています。ダビデ契約とは、「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:12-13)という約束です。ダビデの家系から...

驚くばかりの恵み(イザヤ書6:1~8)

イザヤ6章 1 〜 8 節 大茄子川 秀瑛 「驚くばかりの恵み」    本日の箇所は、「死んだ。」という言葉から始まります。 一節「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。」 「ウジヤ王が死んだ」このニュースは、国全体に不安の闇を落としました。 ウジヤ王は頼れる王でした。彼は16歳で王に即位し、52年もの間、ユダの国を治めました。これはユダ王国史上、二番目に長い統治でした。その期間、彼は、経済、軍事、農業において成功を収め、国全体に平和と繁栄をもたらしました。ウジヤ王は正に、国の頼れる柱でした。しかし、頼れる柱は折れ、王は死んだ。「これから、この国はどうなっていくのだろうか。」人々の心にそのような不安が広がる年に、イザヤは主を見たのです。 イザヤが見た主は、高く上げられた王座に着座しておられました。 地上の国王の席は空になった。しかし、天にある、世界の王の席には、主が着座しておられた。この地上は移ろい変わりゆくが、しかし、不動の神は昨日も今日も明日も変わらず、世界を支配し、導いておられる。   イザヤの見た、その光景は慰めでした。しかし、同時に恐怖でもあった。イザヤは神の「聖さ」を見たからです。神の側で仕える、セラフィムと呼ばれる天使たちは互いに歌い交わします。 3 節「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」 聖書で同じ言葉が繰り返される時、それは強調を意味しました。例えば、イエス様は、これから本当に大切なことを話す、という時、「まことに、まことに、あなた方に言います。」と言われました。「まことに、まことに、」と 2 度繰り返すことで、「これから話すことは、重要な事なのだ」と聞く人達に強調したのです。  同じように天使達も、言葉を繰り返すことによって、強調しています。しかし、天使は 2 度の繰り返しでは足らず、 3 度繰り返して、「聖なる、聖なる、聖なる」と言いました。神は単に「聖なる方」なのではない。私たちの理解を遥かに超えた、無限に聖なる方なのです。    では、「聖なる」とは、どういう意味なのでしょうか。ヘブライ語の「聖」という言葉には、「分離する」とか「区別されている」という意味があります。他のいろいろな物から区別されて、特...

ラバンとの駆け引き(創世記30:25~43)

「ラバンとの駆け引き」 創世記 30 : 25 ~ 43  ヤコブの妻たち、レアとラケルの子産み合戦は、ラケルがヨセフを生んだことによって、一段落しました。すでに二人の妻のために 14 年の月日を負債のある奴隷のように働かされたヤコブでした。前半の 7 年は愛するラケルと結婚したい一心で働いたので、あっという間に過ぎましたが、ラバンに騙されたと知った後半の 7 年はつらくて長い労働に変わったに違いありません。 そしてつらい14年の契約期間が終わりました。ヤコブはラバンに申し出ます。 「私を去らせて、故郷の地へ帰らせてください。」(25) 当然の要求でしょう。そもそもヤコブがここに来た目的は妻を見つけて、連れ帰ることでした。ですから続けてラバンに言います。 「妻たちや子どもたちを私にください。彼女たちのために私はあなたに仕えてきました。行かせてください。」(26) 契約の14年が過ぎているので当然のように思えますが、彼はずいぶん下手に出ます。なぜでしょうか。先ほども言いましたが、ヤコブは、今日に見るような娘婿としての扱いを受けておらず、さながら、借金を肩にただ働きをさせられている奴隷でした。当時の法律、慣習では、奴隷が自由の身になりたいときには、自分の所持品や妻や子を置いて、一人で去らなければならないといとされていました。それだけでなく、ラバンとヤコブの労働契約が養子縁組による親子関係に条件づけられていたため、ヤコブは、ラバンが死ぬまでは、独自の財産を所有することができなかったのです。ですから、当時の慣習からすると、ヤコブは特例を願い出ていたということになります。けれどもヤコブは、 「あなたに仕えた私の働きは、あなたがよくご存知なのだから」 と主張します。今のラバンの繁栄は、私のおかげなのだと言いたいのです。それを聞いてラバンも腕を組み、考え込みました。 「私の願いをあなたがかねてくれるなら―。あなたのおかげで主が私を祝福してくださったことを、私は占いで知っている。」 (27)占いなどでなくても、ヤコブのおかげでラバン一族が経済的に豊かになったことは明らかなのに、彼は、素直に認めたくなくて、こんなことを言っているのでしょう。実際、この14年、ラバンはあらゆることが祝福されました。すべてヤコブのおかげです。何しろヤコブは、アブラハム契約からの祝福の継承者です...

いのちの冠を与える(ヨハネの黙示録2:8~11)

「いのちの冠を与える」 (黙示録 2:8-11 )   はじめに  久しぶりに「七つの教会への手紙」シリーズです。 復活の主イエス・キリストは、終わりの時代に小アジア(今のトルコ)にある七つの教会に手紙を送ります。それは、それぞれの困難の中にある教会を励まし支える手紙でした。今朝は小アジアの第二の都市、スミルナの教会に語り掛ける主の御声に耳を傾けます。お祈りします。   1.     キリストの姿  8節(読む)  スミルナは大都市エペソに次ぐ、小アジア第二の都市でした。エーゲ海に臨む港町で、その美しさゆえに「アジアの美」と呼ばれたとも言われます。エペソに次ぐ第二の都市、港町のスミルナ。日本で言えば、東京と横浜の関係か、と思いきや失礼しました。我らが船橋も港町でしたね。スミルナは、小アジアの「船橋」(横浜ではなく)。そしてスミルナの小さな教会は、私たち新船橋キリスト教会。今朝はそのようにイメージを重ねつつ手紙を味わいたいのです  スミルナの教会に、主はどのような現れ方をしたのでしょう。黙示録では、主イエスの現れ方自体がメッセージです。それは「初めてあり終わりである方」。「歴史の初め」と「終わり」に立つキリストでした。つまり時の支配者は「わたし」である、というメッセージです。歴史に起こることは、すべて「わたしの手」の中にある。  しかも、この大きなキリストは、「死んでよみがえられた方」でもあったのです。つまり十字架と復活です。十字架に死んだけれど、三日後に死に打ち勝った復活の主。何と大きなお方でしょうか。でも、なぜスミルナの教会には、そのような大きな姿をもって語り掛けていくのか。「どうして」初めであり終わりであるキリストか。今朝は、この問いを握りながら手紙を味わいたいのです。   2. 苦難、貧しさ、ののしり  初めにして終わり。ご自分の姿を示したキリストは、「知っている」というお決まりの言葉で語り掛けます。9節  キリストは知っていました。教会の直面する「苦難」「貧しさ」「ののしり」を「わたしは知っている」。キリストに知られることは慰めですが、その内容は普通ではありません。他の手紙では、「知っている」という中に、「よくやった」と称賛するような良いことが含...