スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

12月, 2023の投稿を表示しています

実を結び成長する福音(コロサイ人への手紙1:6)

「実を結び成長する福音」 コロサイ人への手紙1:6 今年の年間テーマを皆さん覚えておられますか?「福音に立つ教会」(Ⅰコリント15:1~5)でした。今年1月の説教では、「福音」は、単なる救いの入り口ではなくて、救われた者が生きる道そのものであるとお話ししました。祈祷会では、「福音中心の人生」というテキストを使って、半年ほどかけて、福音が私たちの生活全域に浸透するように、じっくりと学びました。祈祷会に出席しておられる方は、この学びを通して、信仰生活が変えられる経験をされたと思います。私自身もそうでした。ですから、1年最後のこの主日に、もう一度、「福音に立つ」ということについて、皆さんといっしょに教えられたいと思います。   さて、コロサイ人の手紙は獄中書簡の一つです。諸説あるのですが、一般的にはパウロがローマの獄中にいるときに書いた手紙だとされています。皆さんご存じのように、獄中と言っても、比較的自由が与えられており、多くの訪問者がパウロのもとを訪れました。その一人が、コロサイからやって来たエパフラスでした。エパフラスは、パウロがエペソで伝道していた3年の間に救われた人で、のちにエペソから170キロほど離れたコロサイの町で開拓伝道を始めたようです。その教会の会堂として使われていたのが、ピレモンという裕福なクリスチャンの家でした。パウロは彼にも手紙を書いています。それが「ピレモンへの手紙」です。コロサイの教会は、それこそ今日のテキストにあるように、「世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長してい」る教会でした。パウロはそれをほめています。しかしながら、異教の町で、教理的に健全な教会を立ち上げるのは、簡単なことではありません。エパフラスは、自分を信仰に導いてくれたパウロがローマで収監されており、比較的自由の身であることを知って、パウロのもとに相談に来ました。五十三師が、神学校を出てすぐに新潟の亀田キリスト教会に遣わされた時にも、何か問題があると、地域の先輩牧師や、私の父に相談をしたものでした。 コロサイの教会の問題は、大きく分けて二つありました。ひとつはグノーシス主義の問題です。グノーシスというのは、「知識」「認識」という意味で、グノーシス主義というのは、ざっくり言うと霊肉二元論です。霊と肉体を分け、この肉体に属するものは汚れており、霊に

キャンドルライト・サービス

「地の上に平和が」 ルカの福音書2:14 2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」   午前中のクリスマス礼拝で、同じ個所からお話しをしました。こんばんは、このみ使いたちの賛美とお告げのところから、「平和」ということを学びたいと思います。 けれどもこの説教の準備をする中で、気づいてしまったことがあるのです。それは、み使いたちが、羊飼いたちに救い主誕生のお告げをしたときに、「その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。」とあるのです。軍勢です。軍勢とは、おびただしい数の武装した兵士の意味です。ある人が、この場面は、羽のついたかわいい天使が、美しい声で讃美歌を歌っている姿を想像するのは間違っている。例えるなら、ニュージーランドのラグビー選手が試合前に HAKA をするじゃないですか。あんな感じじゃないかと言うのです。なにしろ軍隊ですから。そして、その天の大軍勢が「天に栄光、地に平和」と賛美する光景は不思議といえば不思議です。   もちろん天使たちの戦いは地上の戦いではありません。霊的な戦いといいますか、この世の暗闇の力のとの戦いです。 けれども、この日の晩、救い主が生まれたその晩は、あまりにも大きなその恵みの知らせに、その天の軍勢たちも戦いをやめて、この良き知らせを告げるみ使いたちと声を合わせて、神を賛美する歌、神の救いと平和を歌ったのです!イエスさまは「平和の君」“ Prince of Peace ”だと、先週の説教でもありましたが、「平和の王子」です。救い主イエス・キリストのみが地に真の平和をもたらす「平和の君」であり、その待ち望んだキリストがついに世に来られた。「キリストの平和」がもたらされた。もちろん、キリストの平和が完成するのはまだ先で、もう一度キリストが来られる日を待たなければなりませんが、やがてはすべての戦いが終わります。こうして完全な平和が、イエス・キリストが再びおいでになる日に完成するのです。このみ使いの大合唱はその先取りともいえます。 おそらくその日は、天でも地でも武装を解かれたみ使いたちの賛美が響き渡ることでしょう。   3年にわたる新型コロナウイルスのパンデミックは世界中を巻き込んで、多くの人のいのちを奪いました。また、2022年2月24日に

かいばおけのあかちゃん(ルカの福音書2:8-20)

かいばおけのあかちゃん ルカの福音書2:8-20 …さて、イエスさまはなんと呼ばれているのでしょうか。まずは「民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます」とあります。この言葉は、皇帝の世継ぎが生まれるときに使われる言葉だそうです。それぐらい大きな規模の喜びなのです。そして「ダビデの町で生まれる救い主」それは、ご自分の民を圧政から救い、苦しみから救い出す王である救い主のことです。そして「主キリスト」、「主」は旧約聖書ではヤハウェの神を呼ぶときに使われていた言葉です。つまり、天使たちは、王の王、主の主、神そのものがお生まれになるという知らせを告げたのです。   そして、この恐ろしく高いところにおられる偉い神さまのみ子、王子様がお生まれになったという知らせが誰に届いたのでしょう!?貧しい、アウトサイダーと言ってもいい羊かいたちに真っ先に伝えられたのです。このギャップがクリスマスの特徴です。それだけじゃないイエスさまは、ナザレの田舎町に住む若く貧しい乙女マリアより生まれ、また大工の息子として生まれ、普通の宿にも泊まれず、家畜小屋で生まれました。そして究極は、「飼葉桶」に寝かされたのです。つまり、頂点のお方がどん底に下られたということです。 そしてこのルカの福音書を読み進めていくと、イエスさまはやがて、十字架に磔にされ殺されます。そして死んで葬られるのです。葬られる時、イエスさまの体は、亜麻布で包まれ、墓の中に納められます。「彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。」(ルカ23:53)。この「納める」という言葉の原語は、赤ちゃんのイエスさまが飼い葉おけに「寝かされた」と同じことばです。赤ちゃんのイエスさまが、布に包まれ、飼い葉おけの中に寝かされたように、イエスさまの遺体は布に包まれ、棺桶に寝かされたのです。   イエスさまは、経済的に最下層に生まれてくださっただけではなく、人間と同じように死んでくださった。私たちの罪を背負って、罪人として罪の刑罰を受けてくださったのです。そこまで落ちてくださった。神は本来は死なないのにです。 どうしてそこまでどん底に下ってくださったのか。それは、どん底から、すべての人を照らすためです。人間の世の中は、下に行けば行くほど闇が深いのです。たとえば深海は太陽光がほとんど届かない真っ暗闇の世

平和の君(イザヤ書9:1~7)

「平和の君」(イザヤ9章1~ 7 節)  齋藤 五十三 師 昨年からのウクライナの戦争に続き、今年はイスラエルによるガザ侵攻と、暗いニュースが続いています。 数年前までは、まさかこれほどに平和を切実に祈り求める時代が来ようとは、思いもしなかったのではないでしょうか。 ウクライナやパレスチナだけではありません。今や世界中、至る所に地雷が埋まっていて、いつ爆発するのか分からないほどの暗い時代を迎えました。 そんな時代の中で、この朝は皆さんとともにイザヤ書9章を味わいたいと願ったのです。   1.      闇、戦いの中に差し込む光  1節「しかし、苦しみのあったところに闇」、そして2節「闇の中を歩んでいた民」とあることから分かるように、イザヤは、暗い闇の時代を背景にしながら神の言葉を取り次いでいました。 また5節に「戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服」とありますので、そこには争いや戦争があったこともすぐに分かるのです。  イザヤ書9章は、そんな闇と戦乱の時代を背景に語られる回復のメッセージです。預言者イザヤは、そうした回復のメッセージを、苦しみの中にある人々に「神の言葉」として届けていったのでした。 苦しみの様子は、1~5節に垣間見ることができます。   1節(読む) ここに出てくるゼブルン、ナフタリの地は、イスラエルの北部ですが、そのすぐ上にはかつてアッシリアという強い国がありました。そのアッシリアが武力を振るった時に、真っ先に深い痛手を負ったのがこのゼブルンとナフタリの地であったのです。そして、そのナフタリの中に、イエスさまが育ったガリラヤ地方もあったのです。  そのガリラヤの名前に触れながら、イザヤは言うのです。ゼブルンやナフタリは、真っ先に傷を負ったかもしれない。しかし、そのように傷ついたナフタリの中のガリラヤから、まず栄誉が回復していくのだと。 4- 5節を読めばどうでしょう。イスラエルにかつてあった戦乱が一掃される日が来るというのです。しかも驚くべき方法で。  4-5 節(読む)  イスラエルは小さな国ですので、多くの強い国や民族に囲まれ、度々攻め込まれてきたのですが、旧約聖書の士師記の時代には、ミディアン人と呼ばれる人々がイスラエルを圧迫していました。そんな苦しみから神がイスラエルを救うので

クリスマスの広がり(使徒の働き28:23~31)

「クリスマスの広がり」 使徒の働き28:23~31 私が使徒の働きを松平先生から引き継いだのは、使徒の働き11章からでした。それ以来、少しずつ皆さんといっしょに読み進めてきました。これだけ長く続けて読むと、パウロの伝道の方法には、一つのパターンがあることに、皆さんもお気づきになったと思います。パウロは、新しい宣教地に行くと、まずはユダヤ人の会堂に入って、旧約聖書を紐解いて、イエスが旧約聖書の預言の成就者であることを説いていくという方法です。このパターンは、ローマでも変わりませんでした。もちろん、パウロは裁判を待つ身、自宅軟禁状態ですから、会堂に出向くことはできませんが、まずは、ローマに11あったと言われるユダヤ人の会堂から、主だった人々を招きました。そして彼らに、自分がローマに来たいきさつ語り、それについて簡単に弁明したのでした。エルサレムのユダヤ人たちから、何か通達のようなものがあったかと懸念していましたが、ローマのユダヤ人たちは、パウロの悪い噂は聞いておらず、先入観からパウロを憎んでいる人もいないことがわかりました。パウロは安心したことでしょう。これで、ユダヤ人たちからありもしないことで訴えられたり、陰謀を企てられたりする心配ありません。そして、今度は日を改めて、一般のユダヤ人たちも招いて、イエス・キリストの福音について、じっくり語ろうと彼らと約束したことでした。 けれども、みなさん疑問に思いませんか。パウロは異邦人伝道に召されていたはずです。自分でもそう公言しているのに、なぜここまでユダヤ人伝道にこだわるのでしょうか。今までも、新しい宣教地に入ると、必ずユダヤ人の会堂で説教するのですが、うまくいった試しがありません。しばらくすると必ず反対者が起こり、会堂を追い出され、迫害につながっているのです。それなのになぜ、ここまでユダヤ人にこだわるか、その答えは、パウロが書いたローマ人への手紙の9章から11章までに書かれています。 パウロの同胞、ユダヤ人への愛がそこにあります。パウロは9章2-3節でこう言います。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」 凄まじいほどの愛です。そういえばモーセも同じような祈りをしま

イスラエルの望み(使徒の働き28:17~22)

さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。 ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。 パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。 さて、パウロ