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8月, 2025の投稿を表示しています

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

アドナイ・イルエ(創世記22:1~24)

「アドナイ・イルエ」 創世記 22 章1~24節   「これらの出来事の後」とは、どんな出来事でしょうか。前の章を見ると、アブラハムたちがその当時滞在していたベエル・シェバで、そのあたり一帯の領地を所有しているアビメレクと盟約を結んだ後のことです。その盟約を機に、それまで頻繁に発生していた井戸をめぐっての衝突の問題もひとまず解決し、寄留の地でありながらも、安定した生活が見込まれ、その中でアブラハムは安心してサラと共に約束の子イサクを育てることができました。 けれども、いい時は長くは続かないものです。一定の年になると、私たちはそれを経験的に知っています。ですから、状況が落ち着いていて、平穏無事なときは、主からのプレゼントとして、主に感謝しつつ、その時を楽しみたいと思います。先のことを思い煩ってせっかくのいい時を享受しないのはもったいないですね。けれども、時として主から与えられる試練も、また私たちへの愛のプレゼントであることを忘れてはいけません。「試練とは、醜い包装紙に包まれたすばらしい神からのプレゼントだ」と言った人がいます。本当にそうです。神さまの知らないところで起こる試練はありませんし、神さまの許しの中で起こる試練には、すべて神さまの「よい目的」があり、神さまは、私たちが試練にあっている間、片時も離れることなく、一緒にいてくださり、愛のまなざしを向けていてくださるからです。へブル書12章11 - 12節にはこうあります。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。」 この時にアブラハムに与えられたのは、まさに神からの試練(訓練)でした。神さまは、アブラハムに「アブラハムよ」と呼びかけました。すると彼は「はい、ここにおります!」と答えました。主の呼びかけに、逃げも隠れもしないで、まっすぐに「はい、ここにおります!」と向き合うアブラハム。ここに神さまとアブラハムの親密な関係があらわれています。この22章を読む中で、皆さんも感じられたと思いますが、アブラハムは神さまに対してどこまでも従順です。以前のアブラハムなら、ここで神さまとの押し問答が繰り広げられると思うのですが、今回はそれが一...

平和をつくる者(マタイの福音書5:9)

「平和をつくる者」マタイの福音書5章9節 齋藤五十三師    日本の八月は「平和」について考える季節です。私たちはキリストの言葉から、平和をつくることを共に考えていきたいと思います。お祈りします。   1.     平和をつくる者  5節「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」  「平和」と聞くと、戦争がないこと、あるいは戦争を終わらせるという、国や民族レベルの大きな平和をイメージする方が多いと思います。そうした戦争がない状態を実現し、あるいは保つことも平和をつくることですが、ここで主イエスが教えてくださった「平和」はもっと広い意味を持つのです。ここで「平和」が意味するのは、ヘブライ語のシャロームです。国と国、あるいは民族間の大きな平和だけでなく、個人レベルでの争いの解決や、和解など、人と人の間の小さな平和も含めて、主イエスは「平和をつくる者は幸い」と言われたのでした。それが大きい平和であっても、小さな平和でも、平和をつくる者は同じように幸いである。しかも、大きい平和も小さな平和も、平和をつくるための原理は同じです。その原理とは何か。それは相手を赦して和解する。個人レベルの平和はもちろんですが、国や民族レベルの平和も、最初の一歩は、指導者のような一人が相手を赦し、和解しようと決断するところから始まっていく。大きい平和も小さな平和も、それをもたらし、つくるための原理は全く同じです。  ここで注目させられるのは、「平和をつくる者が幸い」と言われていることです。平和な者が幸いとは言われず、「つくる者」が幸いと言われている。主イエスは、私たち信仰者一人一人のアクションを求めています。自分が平和なら、それでよいとは言われない。もし周囲に不和や争いがあれば、私たちがその間に入って仲介していくようなアクションを求めているのです。また、私たちにもし赦せない誰かがいるならば、その誰かを赦すことが促されている。相手を赦して和解する。それが平和をつくり出すのです。 大きい平和も小さな平和も、平和は相手を赦し、和解するところから始まっていく。どうですか。これが、今朝の御言葉の意味だとすれば、この教えを実践するハードルが、グンと上に上がったのではないかと思います。私自身も、これはな...

アビメレクとの契約(創世記21章22~34節)

「アビメレクとの契約」 創世記 21 章 22 ~ 34 節   「そのころ」とは、いつのころでしょうか。アブラハムが妻のサラを妹だと偽ったため、アビメレクがサラを召し抱えたあの一件があって、すでに4年が経っていました。その間、神さまは、年老いた二人に息子イサクを与えました。そして、アブラハム一族は経済的にも祝福され、多くの使用人と軍隊、家畜、金銀を持つようになり、非常に豊かになっていました。「そのころ」のことです。 アビメレクはその軍の長ピコルと共にアブラハムのところにわざわざ出向いてきました。そして言うのです。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」と。このあいさつは、どういう意味でしょうか。皮肉もあるのかもしれません。「あなたは、以前、自分の妻を妹と偽り、私をだまして、大変な災害に遭うところでした。けれども、あんなことをしても、神はあなたとともにおられ、あなたを豊かに祝福しておられます。しかも、あなたは100歳にもなって、やはり年老いた妻サラによって子をもうけたと聞きました。これはまさに、あなたが何をしても、神があなたとともにおられる証拠です!」アビメレクは、暗に「別にあなたがすばらしいからじゃないですよ。あなたの神さまの誠実さです!あなたを見ていると神の愛と恵み深さ、ご真実がわかります!」と言っているようではありませんか。 クリスチャンは、「こそクリ」と「でもクリ」がいるそうです。「こそクリ」いうのは、この人 こそ クリスチャン!クリスチャンの鏡!と言われる人です。そして「でもクリ」というのは、これ でも クリスチャンという意味です。弱いけどクリスチャン、いつも失敗ばかりするけどクリスチャン。ずっこけクリスチャンです。でも、この人を見ていると、神さまに愛されているのだなと思う。神さまは心の広い、恵み深いお方なのだなとわかる。そんなクリスチャンです。私たちは、「こそクリ」よりも、むしろ「でもクリ」でありたいと思うのです。私たちが、正しいからじゃない。私たちがいい人だからじゃない。神さまはこんな小さな者を愛して、高価で尊いと言ってくださり、豊かな恵みを日々注いてくださっている。そんな神さまの憐れみと恵みの象徴のようなクリスチャンでありたいと思うのです。 アビメレクはそんなアブラハムを見ていて、二つのことに気が付きました。...